Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 海外写真集|アジア・微笑の国 タイ王国 古の都アユタヤとアユタヤ王朝の遺跡群(世界遺産) : 長く続いたアユタヤ王朝も1767年、ミャンマー(ビルマ)の軍勢により滅亡。現在のアユタヤは、この侵攻により廃虚となった遺跡が残され、アユタヤ歴史公園は、世界遺産に。

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タイ 古の都アユタヤとアユタヤ王朝の遺跡群(世界遺産)

 アユタヤ王朝(1351年 - 1767年)は現タイの中部を中心に展開したタイ族による王朝で、創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。 1350年にアユタヤ王朝の都として築かれたアユタヤは、バンコクを世界でも有数の稲作地帯に発展させてチャオプラヤー(メナム)川中流の沿岸にあり、東西約7km、南北約4km、四方を川に囲まれた島状の街だ。水運を利用し、近隣だけでなく中国、ペルシャ、遠くヨーロッパとも交易を広めました。最盛期には東南アジア最大の都市へと発展した。 17世紀には日本と御朱印船貿易により、1500人が住む日本人町も形成され、山田長政が傭兵隊長として名を馳せました。 アユタヤの王は上座仏教を信奉し、都に数多くの寺院や宮殿を建立。今日残っているほとんどは、都ができて150年の間に建てられたものです。 35代にわたって続いたアユタヤ王朝も1767年、ミャンマー(ビルマ)の軍勢によって滅亡します。現在のアユタヤは、この侵攻により廃虚となった遺跡が残され、当時の面影を伝えています。アユタヤ歴史公園は、タイ、アユタヤにあるアユタヤ王朝の遺跡群で世界遺産に認定されています。アユタヤの地図も掲載。
News 2006年6月には、天皇・皇后両陛下が訪問されました。

 

タイ索引 [ バンコクの風景・風俗女性(美人)・怪しげな人達動物・植物・果物アユタヤ北部(チェンライ他)雑貨 ]

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タイの古都・アユタヤ 世界遺産

30〜40年程前に、大映の映画館で見た長谷川一夫が演じる山田長政。タイにあった日本人町(右の写真はその名残です)。 当時はアユタヤではなくアユチヤだったようです。 山田長政で有名になったアユタヤ王朝のその後を、レポートします。 かっては大きな王朝が栄えていましたが、近隣諸国との戦争で負け王朝も滅びました。 その戦争の名残が、廃墟のそこかしこで散見されます。 一つには仏像の首を悉くはねた有様、木の根っこの部分に挟まった仏像の首(写真アリ)等、かっての王朝の華やかなりし頃を彷彿とさせます。
アユタヤ王朝(1351-1767年)は現タイの中部を中心に展開したタイ族による王朝。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。切手ではアユタヤを、
アユタヤ遺跡群は、外敵の侵入を防ぐため、チャオプラヤー(メナム)川とその支流のパーサック川、ロップリー川に囲まれた中州に集中。ワット・プラシーサンペット、ワット・ローカヤスターなどの寺院跡、王宮跡が残っています。(世界遺産、1994)

タイ アユタヤ 遺跡 切手 日本人町 

アユタヤ日本人町は14世紀中ごろから18世紀頃までアユタヤにあった日本人町。南北約570メートル、230メートルの敷地に最盛期で1000〜1500人の日本人(タイ族などの使用人を除く)が住んでいたと思われている。日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになった。この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の戦い、大坂の役などの後である。朱印船貿易により、貿易面においてもアユタヤ日本人町は多くの発展を遂げた。1630年には、アユタヤ日本人町は「謀反の動きあり」として、焼き払われ住民は虐殺された。ちょうどこの頃が山田長政が全盛期の頃となります。(画像クリックで拡大

■川に囲まれたアユタヤの街ならでは、悠々と流れるチャオプラヤー川をゆっくりと下りながら遺跡を巡り、途中僧侶の托鉢風景や水上生活を営む人々の暮らしぶりに出会えました。チャオプラヤー川は、ナーン川とピン川が交差する地点、ナコーンサワン県で始まる。チャオプラヤー川の水量の大きくを供給する支流はピン川である。チャオプラヤー川系統の川は16,000平方kmの放水量を持つ。チャオプラヤー川は370kmにも及び流れている。かつてはメナム川と呼ばれることが多かったが、これは現地で「メーナーム・チャオプラヤー」(「メナム」は川の意味)と呼んでいるのを、「メナム」が川の名前であると誤認したことによるものです。

アユタヤの玄関口です

アユタヤは大きな環濠都市だったようです

 

アユタヤ遺跡群は、チャオプラヤー川とその支流であるパーサック川、ロップリー川に囲まれた中州に集中している。これは、敵からの防御を考えて中心部の回りに運河を掘ったことによるものである。ワット・プラシーサンペット、ワット・ローカヤスターラームなどの寺院跡、王宮跡が残っています。

船上から見たアユタヤ遺跡。

ワット・プラ・ラーム
 

ワット・プラ・ラーム:右の写真中央左の太目の塔がワット・プラ・ラームです。ワット・プラ・ラームはアユタヤの遺跡群の中心部にあり、アユタヤ王朝を開いた初代ウートン王が火葬された場所に建てられました。クメール様式の朽ちた石像と4基の仏塔が栄光の時代をいまも物語る、初代ウートン王の菩提寺です。400年以上続いた栄光の時代を今も刻んでいます。15世紀と18世紀に改修されましたが、最後はビルマ軍に破壊されてしまいました。

アユタヤの地図

タイに関するお勧め書籍

ワット・プラ・スィ・サンペット ほか  

■アユタヤは、14世紀末までにはアユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力として見なされるようになるが、完全に東南アジア地域を圧倒するほどの人口に欠けていた。西のビルマは地域の覇権を競い、16世紀ごろから執拗にアユタヤへの攻撃を繰り返しており、アユタヤはこれに頭を悩まされることになる。ビルマタウングー王朝の君主、バインナウンは1569年にアユタヤ王、マヒントラーティラートを下しているがナレースワンによってアユタヤは再興された。この後、ビルマが内乱に見舞われたことから一時ビルマの侵攻は収まったように思われたが、コンバウン王朝が興ってから再びアユタヤはビルマの侵略に悩まされる。 1767年にビルマ(ミャンマー)の攻撃を受けてアユタヤ王朝は消滅した。同時にアユタヤ市内の建造物や石像は徹底的に破壊され、ほとんどの寺院は廃寺となり、王宮も台座を残すのみとなった。
苔むしたセイロン様式の仏塔が時代の栄華を偲ばせるアユタヤ最大規模の寺院。歴代の3人の王が眠るタイのもっとも重要な王宮建物です。
ワット・プラシー・センテ。この寺は550年前8代目の王サフィヤアバドによって建てられた。高さ40mのスリランカ様式の仏塔が3つ建っている。(写真では2つ)向かって右側は8代目の王、中央は9代目の王、左は10代目の王によって建てられた。高さ16mの24金貼りの仏像がある。金の総重量は5トンある。一直線上に建てられているので端から見ると1つの塔しか見えない。

 

首の無い仏像たち 戦争で相手国に切り落とされてしまったそうです。悲しいですね。ワット・プラ・マハタート:アユタヤ王朝を徹底的に破壊したビルマ軍は宝物ばかりか仏像の頭をことごとく持ち去った。仏像の頭には宝物が入っていたからという説もあるが何とも悲しい話である。

アユタヤに似合いの白い花が咲いていました。

ワット・プラ・マハタート:多くの仏像はミャンマー軍に破壊され、残った仏像も盗掘者に頭を盗まれてしまったが、木の根っこに埋まってしまった仏像の首。


クリックで拡大できます。

■アユタヤ王朝の滅亡:スコータイ王国(スコータイ王朝(13世紀-1438年)はタイに存在した王朝。タイ族最初の王朝と言われる。)との関係は、アユタヤ朝がスコータイ朝を併合し、スコータイ朝は消滅する。1767年にはシンビューシンによってアユタヤ王朝が滅亡する。このときアユタヤの町は徹底的に破壊されていたため、ビルマ軍が退却した後、新たに王となったタークシンはアユタヤ再興をあきらめトンブリーへと遷都する。これによりアユタヤ王朝は終焉を迎えた。
■ワット・プラ・マハータートは、18世紀にビルマの侵攻を受け、ビルマ軍は、アユタヤの人を殺戮し、徹底的に町を破壊しました。寺院の仏像の頸を切り落とし、ビルマに持ち帰ったそうです。今の寺院の境内には、頸のない仏像が痛々しい姿で並んでいます。 ビルマに持ち帰れなかった仏像の頸は、土の上に放置された。仏頭を守るように木の根が囲っています。木の根っこの中から仏像の優しげな顔がのぞいています。奇蹟の奇蹟と私には映りました。

切手にあるアユタヤ以外のタイの遺跡と関連書籍

切手はサトチャナライ歴史公園にあるスコタイ王朝期の寺院:ケディ・ケト・タェオ、チャン・ロンほか。いずれもサトチャナライ歴史公園にあるスコタイ王朝期の寺院。世界遺産。 (1993)

 タイ 遺跡 切手 

[切手のリンク:アジア切手デッドカントリー切手アジアの世界遺産神仏像民族衣装 ] 

■タイとカンボジアの関係 : タイとカンボジアの国境問題に絡んで、2008年7月上旬にプレアビヒア寺院がカンボジアにより世界遺産登録されたが、その登録を契機に両国間の国境問題が激しさを増し、7月下旬に同寺院周辺のタイ・カンボジア国境にて両国軍が展開し、対峙する状況となり、さらには同年10月上旬及び中旬、2009年4月に両軍間で小規模な衝突が起き、死傷者が出た。その後も同地域において小規模な銃撃が散発的に発生している。同年11月、タクシン元首相がカンボジア政府の経済顧問に就任したことにより、両国政府が互いに大使を召還するなど、タイ・カンボジア間で対立がみられる。

Ayutthaya (RTGS: Anachak Ayutthaya, also Ayudhya) was a Siamese kingdom that existed from 1351 to 1767. Ayutthaya was friendly towards foreign traders, including the Chinese, Vietnamese (Annamese), Indians, Japanese and Persians, and later the Portuguese, Spanish, Dutch and French, permitting them to set up villages outside the city walls. In the sixteenth century, it was described by foreign traders as one of the biggest and wealthiest cities in the East. The court of King Narai (1656-1688) had strong links with that of King Louis XIV of France, whose ambassadors compared the city in size and wealth to Paris.
By 1550, the kingdom's vassals included some city-states in the Malay Peninsula, Lan Xiang (Laos), Sukhothai, Chiang Mai (Lanna), Cambodia and the Shan States.
According to foreign accounts, Ayutthaya was officially known as Siam, but many sources also say that the people of Ayutthaya called themselves Tai, and their kingdom Krung Tai or 'the Kingdom of the Tais'.

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