アジアの旅行写真|シルクロード 敦煌はシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市 |
シルクロード 敦煌
敦煌 索引 [ 莫高窟|鳴沙山、月牙泉|白馬塔|沙州市場、敦煌夜市|昔の関所「陽関」と「玉門関」|夜光杯工場|その他 ]
敦煌市(とんこうし)は、中国甘粛省北西部の都市。かつてシルクロード(絲綢之路)の分岐点として栄えたオアシス都市。青蔵高原の北縁、河西走廊の西端にあり、古くから中国と西域との出入口として使われている。 映画や小説、そしてTVドキュメンタリーなどでも有名な町。
ガイドさんが言うには「先週、大雨が降り洪水で道路が寸断している。遠回りする」、敦煌は砂漠の中のオアシス。そんなこともあるのか?と思った。 竜巻は多いそうだ。
敦煌の名前は後漢の学者応劭によると「大にして盛ん」と言う事だが、実際には紀元前からこの地を支配していた月氏の言葉の音訳であるようだ。敦煌博物館も見学しましたが割愛します。 2016年6月
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敦煌は砂に覆われた街としてのイメージが強いのですが、各所で見かけたのがハマナスです。今頃(6月)の西域は意外や綺麗な花に満ちています。タマリスクはどこか赤まんまが大きくなったようで、ウルムチからトルファンへの道すがらでも水辺には非常に多くみられた。
敦煌からトゥルファンを経てウルムチに達し、イリ川流域にいたるもの。この北方のシルクロードはおそらく紀元後数年に開かれた。天山山脈の北麓を進むことから天山北路とも呼んでいます。
中国新八大料理の一つに数えられる敦煌料理は、地元の羊や牛などの素材を生かしたもので、四川料理と合うのが特徴です。 唐辛子や花椒などの香辛料を効かせた場合が多いです。
今回は日本人好みの味にしたのかもしれない。
敦煌 莫高窟(ばっこうくつ)
莫高窟(ばっこうくつ)は中華人民共和国甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡。この中から出た敦煌文書でも有名である。敦煌石窟(とんこうせっくつ)・敦煌千仏洞(とんこうせんぶつどう)とも。1961年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
莫高窟は千仏洞とも呼ばれ、敦煌市街区の東南側にあります。石窟は東晋16国時期に造られ始め、石窟の建設は数千年にわたって続けられました。数多くの壁画、石窟、文化財などがあり、世界的にも有名な仏教芸術景勝地とされています。 「キング・オブ・世界文化遺産」。
莫高窟に入るには、まずしかるべき場所(市内に2か所と言われています)にて入場予約券を買います。 見学当日は、まず莫高窟数字展示中心(ビジターセンター)で凡そ30分~1時間程度、莫高窟の概要のわかる映像を見学します。 その後、数字展示中心から莫高窟を結ぶ乗り合いバスに乗り、凡そ10分程度で莫高窟の入口に到着します。 その後、橋を渡り本当の入口まで移動します。そこで、ガイドさんとドッキングし、入ることになります。 莫高窟の内部はカメラ持ち込み禁止、見学には敦煌研究院の専属の日本語が堪能なガイドさんがついてくれます。 最後に資料販売所も案内してくれます。
莫高窟は1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。 窟内の絵画は実際に見学した後で、絵葉書と資料を参考にしています。 45窟、57窟は特別窟でした。 特に57窟(初唐) 樹下説法図の右脇侍観音菩薩は、平山郁夫さんのお気に入りで、毎回この絵を見るために莫高窟を訪れたそうです。確かに男性のような女性のような絵です。 別名、57窟は美人窟と呼ばれている。
莫高窟は鳴沙山の東側に伸びる全長約1,600mの断崖を掘り抜いて造られた石窟寺院だ。切り立った岩壁に穴を掘り、石窟の中を装飾し、仏像を置いて寺院とした。
莫高窟での見学窟 : 094,203,130,046,148,249,259,285,425,057,061,045,016-017
45窟は、盛唐を代表する窟とされ、左右の菩薩がそれぞれ、とても美しい。菩薩が美しいだけでなく、釈迦の左側の弟子阿難像も盛唐塑像の最高傑作として名高いそうです。迦葉の体は痩せあばら骨が浮き出ていて苦労一番と言われた姿を表している。頭や髭は剃ったばかりで苦行が終わったばかりのことを表している。足下に夜叉を踏みつけた2体の天王の像があるが1200年前の軍人の姿を表している。この像は東大寺の天王の像と良く似ている。壁には観音菩薩に助けを求めて神通力で救われた物語がたくさん描いてある。
関連ページ
「アジア(中国)の世界遺産 シルクロードのオアシス都市・敦煌と莫高窟 切手」
敦煌 鳴沙山、月牙泉
鳴沙山(めいさざん)は、市街から南に6キロのところに位置する砂山で、以前は神沙山と呼ばれていました。 風が吹くと音をたてるので、鳴沙山と呼ばれるようになりました。 鳴沙山はすべて砂が堆積してできたもので、東西に約40キロ、南北に約20キロ広がっています。 山腹には風が創り上げた、美しい水波状の砂紋があります。 不純物が多数に混じった砂でした。 訪問したのは2016年6月4日。
月牙泉は鳴沙山の北麓に位置する三日月形の湖です。 以前は今の約5倍の大きさがあったといわれています。 砂漠の中で2000年という時を経ても、絶え間なく沸き続け、澄んだ美しい水を湛えています。 古来には仙人が住む場所として、寺院が建てられたこともあったようです。 現在も湖を挟んで正面に立派な寺が建てられています。 水の中には50-60cmの大きな魚(たぶん鉄背魚でなく市井で販売されているソウギョと思う)が多数いました。
鳴沙山の入口 |
鳴沙山 |
フタコブラクダの群れ |
鳴沙山 門 |
鳴沙山から見た月牙泉 |
水が絶えない月牙泉 |
≪ニュース≫甘粛省敦煌市観光局の2016年5月2日発表によると、5月1日、国際的な観光都市・敦煌市の有名観光スポットの月牙泉に非常に珍しい「鉄背魚」が水面に姿を現し、一目見ようと集まった大勢の観光客が写真に収めていた。中国新聞網が伝えた 鳴沙山の上から見た月牙泉 砂漠のオアシスの風情で神秘的な景色で絶景です |
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鳴沙山と月牙泉は古くは漢代には観光地となり、唐代には船が浮かび、岸にお寺も建っていた。 |
朝日や夕日を浴びて金色に輝く風景は、幻想的で美しく、我を忘れて見入ってしまいます。その中を観光用のラクダが列を作って行く姿は、まるで月の砂漠そのものです。 ちなみに鳴沙山の東の麓には莫高窟が拡がっています。
敦煌 白馬塔
白馬塔は高さ12メートル、直径は約7メートルあります。基礎の部分は八角形、上部は円筒形をした九層建ての塔です。 白馬塔は386年に建てられ、その後、何回も再建され現在の塔は元時代に再建されたものです。記録によれば1930年に白馬塔から高さ0.9メートルの黒石で造られた石像が出土され、それには『金剛経』が刻まれています。 敦煌市の西にある七里鎮白馬塔村にあります。 甘粛省の重点文物保護地に指定されています。
4世紀末頃、亀茲国出身の高僧-鳩摩羅什(クマラジーヴァ)が敦煌を訪れた際、経典を積んでいた白馬が死んでしまったことを悼み建立されたといわれています。 死んだ夜、白馬がクマラジーヴァの夢に出てきて「我は大師の東方伝教のお供をすべく仏に遣わされていた者なり。つつがなく『陽關』の地に至れる今、これにておいとません」と言い残し、一本の光に変わっていきました。
日本では馬の慰霊塔は考えにくい。
白馬塔の入口 |
白馬塔への長廊 |
白馬塔 |
※鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーバ、344年 - 413年、一説に350年 - 409年とも)、亀茲国(きじこく)(新疆ウイグル自治区クチャ県)の西域僧、後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧である。 鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われる。また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。三論宗・成実宗の基礎を築く。
※亀茲(きじ)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。 現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ県(庫車県)付近にあたり、タリム盆地の北側(天山南路)に位置した。 丘茲、屈茲とも書かれ、玄奘の『大唐西域記』では屈支国(くつしこく)と記されている。
敦煌 沙州市場
敦煌中心部のロータリーから数分のところに沙州市場(さしゅういちば)があります。
宿泊ホテル・敦煌賓館の隣にあるマーケット。 衣料品や雑貨類、肉、野菜、果物など生鮮食料品などが並び、地元の買い物客でにぎわう市場で、異国情緒たっぷりのバザールの活気がある。 因みに沙州というのは敦煌の昔の名称。
敦煌 昔の関所「陽関」と「玉門関」
陽関(ようかん)は中華人民共和国甘粛省敦煌市の南西約70kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。併せて設置された玉門関より南に位置し、そのため「陽関」と称された。現在は烽火台の跡しか残っていない。 「陽関博物館」は、「陽関」跡の烽火台が立つ高台の麓にあります。
陽関から玉門関へバスを進める。距離は60kmj程だが悪路が続く。タクラマカン砂漠の砂ぼこりの中に逃げ水や蜃気楼が見える。今、外は40℃を超える暑さ思います。 この辺りはフタコブラクダの生育地らしい。陽関と玉門関の間にちょっとしたオアシスの風情の中に検問所のようなもの(玉門関 Yumen
Pass Scenic Area)が見えてきた。どうも玉門関に入るためのチケットを販売しているようだ。 見える木は胡楊です。
★コトカケヤナギ(琴掛け柳、中国語名称:胡楊、学名:Populus euphratica)は、「ポプラ」の一種で、中央アジアから中東や北アフリカまでの乾燥地帯でよく見られる。沙漠などの乾燥に強く、タマリスクとスナナツメと共に「沙漠の3英雄(植物)」とも呼ばれ、3000年生きるといわれる胡楊。生きて1000年、死んでも1000年立ち続け、倒れても1000年腐らないと言われる。
蜃気楼が見えた |
玉門関へ入るチケット売場 |
陽関の方面は砂漠 胡楊 |
玉門関方面も砂漠 |
Yumen Pass Scenic Area |
フタコブラクダ(二瘤駱駝)の野生個体は中華人民共和国北西部とモンゴルに分布する。体長220~350cm。尾長55cm。体高190~230cm。体重300~650kg。中国の野生個体群は中国国家一級重点保護野生動物に指定されている。 |
漢代の長城と烽火台
秦の始皇帝の構築した長城が認識されているが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。長城は前漢にも引き継がれ、武帝の時代にさらに延長される。匈奴を追って領土を拡張したことで、長城は新しく得た河西回廊を守る形で西に延長され、玉門関まで拡張された。後漢の半ばごろには放棄され、三国時代には長城防衛は行われていなかった。
2014年7月23日、中国でこのほど、シルクロード沿線にある万里の長城の西端、漢代の玉門関の遺跡が見つかった。 後漢中期、瓜州(敦煌のある地域)から西の伊吾(現在の新疆ウイグル自治区ハミ地区)に通じる道ができると、敦煌を回る必要がなくなり、唐(7世紀ごろ)まで瓜州晋昌県疏勒河岸の双塔堡に玉門関が移された。と報道があった。 砂と葦や紅柳、胡柳を層にして固め、間に烽火台がつくられました。
長城に連なる烽火台 |
万里の長城の西端、漢代の玉門関の遺跡 |
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UNESCOの世界遺産 玉門関(ぎょくもんかん)はシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。 現存する玉門関遺跡(小方盤城遺址)は唐代のものである。 元来は漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で、長城をこの地域に建設し紀元前108年から107年にその最西端に建造されたとされる。
その後、六朝時代には交通の要綱として栄え、西域交通で北ルートを通ると玉門関、南ルートでは陽関を通過していた。宋代になって西域交通が衰え、衰退した。
小方盤城遺址 |
唐代の玉門関遺跡 |
玉門関遺跡へ南門から |
唐代の玉門関遺跡 西門 |
玉門関遺跡 中は空っぽ |
唐代の玉門関遺跡 西門 |
玉門関。『西遊記』に見られるように、ここより西は魑魅魍魎が暮らす異世界と考えられた。玉門関は、中国で古代より文化人が辺境の地での戦いや孤独な生活を思い詠嘆する地で、唐代の詩人王之渙は「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須(もち)いん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。
ゴビ砂漠 中国ではゴビ砂漠は瓦礫が多く単にゴビと呼び、現地の人は砂だけの砂漠と区別している。 ゴビ砂漠は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万km2で、世界で4番目の大きさを誇る。ゴビとはモンゴル語で「沙漠、乾燥した土地、礫が広がる草原」などを意味する。
タクラマカン砂漠(Taklamakan Desert)は、中央アジアのタリム盆地の大部分を占める砂漠。名称の語源は、ウイグル語の「タッキリ(死)」「マカン(無限)」の合成語と言われ、「死の世界」「永遠に生命が存在し得ない場所」といったニュアンスとされる。 サハラ砂漠、アラビア砂漠、ゴビ砂漠などと並ぶ巨大な砂漠のひとつ。北に天山山脈、南に崑崙山脈と6000~7000m級の大山脈に囲まれているため非常に乾燥しており、降水量は年に数ミリ程度。最後の氷期が終わった頃は海または湖だったとみられ、標高は非常に低く、最低海抜はマイナス130メートル。砂漠の中央を東西方向に縦断することは極めて困難であり、かつてのシルクロードも、砂漠の北縁のオアシスに沿って進む西域北道(天山南路、漠北路とも)と、南縁のオアシスを辿る西域南道(漠南路とも)とに分岐していた。
敦煌 夜光杯工場
中国の甘粛省北西部の酒泉(しゅせん)(チウチュワン)市にある、同市の伝統工芸品「夜光杯」をつくる工場、工房。 夜光杯は、チベット高原から甘粛省、青海省にまたがる祁連(きれん)(チーリェン)山脈で産出する、玉の原石からつくられる玉杯である。 酒を注ぎ月明かりにかざすと複雑な色合いの模様が浮かび上がることから、夜光杯と名づけられた。 3000年の歴史があり、古代の周王朝に献上されたともいわれる。 夜光杯が広く人々に知られるようになったのは、唐代に活躍した王翰の「涼州詞」によってである。
『葡萄美酒夜光杯、欲飲琵琶馬上催。 酔臥沙場君莫笑、古来征戦幾人回』
訳)葡萄のうま酒をたたえた、夜光の杯。それを飲もうとすれば、うながすように馬上から琵琶の調べがおこる。酔いしれて、砂漠の上に倒れ伏す私を、君よ、笑いたもうな、昔から戦いに出でたった人のうち、幾人が無事で帰還できたことか。
※酒泉市(しゅせん-し)は、中華人民共和国甘粛省に位置する地級市。 東は張掖市、南は青海省、西は新疆ウイグル自治区、北は内モンゴル自治区のエジン旗と隣接し、モンゴル国との国境を有する。東西680km、南北550km。
酒泉の地名の由来となった泉は、鐘楼からすぐ近くの公園の中にあった。 河西回廊の伝説には必ずと言っていいほど、漢の英雄の霍去病が登場する。 霍去病が匈奴を打ち負かしたことを聞いた漢の武帝は、10樽の酒を彼に送った。
※霍 去病(かく きょへい、紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢の武帝時代の武将。 紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。
敦煌 その他
新幹線の柳園南駅から敦煌へはタクラマカン砂漠の中を走ります。途中は下の写真のようにオアシスの小さな町を通過しながらラクダ草だけが生える砂漠を行きます。 途中では竜巻がいくつも見えます。 大きなものではありませんが、そばで見たら恐ろしいと感じたと思います。 2016年6月江蘇省で竜巻があり90数名がお亡くなりになったとのニュースをきくにつけ、同じ目に合わずに済んだと感謝!
甘粛省安西の塔 |
砂漠のラクダ草 |
砂漠で発生する竜巻 |
※ラクダ草と言うと日本の草のように野原に生えている草を想像したが、実際には砂漠で生き残るため、ラクダなどに食べられないように無数の棘を持った植物です。それをラクダたちはいとも簡単に食べてしまうそうです。 植物の進化と動物の進化の鬩ぎあいですね。
※敦煌影視城(敦煌古城)は、敦煌市街から西へ25kmに位置するテーマパークで、井上靖原作の映画「敦煌」の撮影用に1987年に造られた映画のセットを利用。宋代の敦煌城を再現した約1万平方mのエリアで、今も時代劇の撮影などで利用されている。 敦煌市内から陽関へ行く途中の左。
テーマパーク 敦煌影視城(敦煌古城) |
烽火台 |
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敦煌市中心から12.7km離れた敦煌空港からシルクロードの出発点である西安へ向かう。
今、空港は大改造しているようだ。飛行機へは徒歩で向かう。
敦煌空港 |
敦煌空港 待合 |
敦煌空港 搭乗 |
シルクロードという語は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『シナ China 』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセンSeidenstrassen
(ドイツ語で「絹の道」の意)として使用したのが最初で、のちには中国を起点・終着点とする国際交易路を広く指しても使われるようになった。
アジアの旅行写真|シルクロード 敦煌は |
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