アジアの旅行写真|中国・江蘇省の省都・南京 日中戦争当時の写真も |
江蘇省の省都・南京
南京:江蘇省の省都であり、南京は古(いにしえ)は金陵と称されていた。山に囲まれ、長江が市内を貫いて流れる地勢の極めて険しい長江下流にある。気候は湿潤である。前後して10の王朝が都をここに置いていた。面頓は6500平方kmで、人口は506万。秦淮河夜泊、孔子廟の夜間市(いち)見学は観光客の間で人気が高い。 南京は、古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明といった王朝や南京国民政府の首都であった。 中国四大古都の一つ。中国四大古都の一つ。 また清朝のころには南京は江寧と呼ばれたことから略称は「寧」である。 南京は夏はとても暑く、重慶、武漢、南昌と並ぶ中国四大竈の一つです。 特に市域内の地形は丘陵地が中心で、特に市街地に接する紫金山は有名である。 そして南京は過去、日本と中国との間で由々しき事があった場所でも有ります。
ご注意)写真は2005年12月に当方が撮影したものです。著作権は保持しています。 |
南京市
■南京の歴史は春秋時代に呉がこの地に城を築いたことに始まる。戦国時代に呉を征服した楚はここを金陵と称した。 楚が秦始皇帝に征服され、始皇帝がこの地に巡幸してきた際に、「この地に王者の気がある」と言われ、それに怒って地形を無理やり変えてこの地の気を絶とうとした。 また名前も金から秣(まぐさ)の秣陵に改名した。 三国時代になると呉の孫権が229年に石頭城という要塞を築いて建業と称してこの地に都を置いた。 西晋にて一旦、建業とされた後に司馬●(愍帝)を避諱して建康と改められ、東晋及びその後の四王朝(宋、斉、梁、陳)の都となった。 呉を含めた六国が全て同じ地に都を置いたことから六朝時代の名がある。 隋で江寧県、唐では金陵県、白下県、上元県などと称される。この時代には、新たに開削された大運河により、長江対岸の揚州が物資の集積地となり、この地域の中心地としての地位を奪われた恰好となり、往時の都としての繁栄は見られなくなった。 唐崩壊後の五代十国時代には、南唐の都金陵府が置かれ、後に改名されて西都と称する。
■南京駅と南京駅のプラットフォーム 駅前の光景もプラットフォームも何故か昔の上野駅のイメージが拭いきれません。 中国は不思議な国です。世界の中の人口だけでなく技術等で中国の位置づけは相当なものですが、日本で数十年前に平気で見ていたものが目の当たりで、タイムトラベル・タイムスリップした感が否めない。 列車で南京から上海に。 |
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■中国に行ったら、一度は国有鉄道に乗ってみてください。 設備の悪さはともかく、皆がワンカップのようなお茶をお持込み、乗務員がそれにお湯を注いでくれます。 日本とは大違いのサービスです。 また、売り子がいて、それとの掛合い漫才もどきな光景も見れます。 本当に時間が経つのを忘れるようです。 下は南京の街中の風景を撮影。 |
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南京で途中よったおみやげ物店(最初は大使館か何かと思いました) |
南京の明孝陵の公園にて 色んなキャラが風船で |
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■明孝陵(みんこうりょう)は中国の南京の東にある紫金山の南麓に位置にある明の太祖洪武帝朱元璋と后妃の陵墓。現在は北京の明の十三陵とともに、世界文化遺産である。この陵墓は蒋山寺と呼ばれていた霊谷寺を移転し、その地に造営された。造営には25年の歳月が費やされた。 ここも訪れましたが記念写真が残っておりません。余り強い印象が無かったか? |
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■今も昔も余り南京の市街地の光景の変化は無いようです。南京の紫禁山。紫禁山は中山陵、明孝陵、霊谷寺などの観光地が位置する。紫金山には全長2350メートルの観光リフトが設置され、リフトからは明孝陵、中山陵、霊谷寺を見ることができる。 |
南京のヒルトンホテルのロビーでお出迎えの鉄腕アトム(?) |
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南京の紫禁山(絵葉書) |
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■南京の宿泊場所の南京ヒルトン・ホテルの前は大きな道路があり、中心部とはいえ夜は寂しく、交通量は少ない。見れば前に大きな雑貨やが有りました。中に入ると日本と同じような雑貨やお菓子が10分の1−2程度の値段で販売されていました。 すぐさま買い込みお土産にさせてもらいました。 また雨花石はヒルトンで購入しています。5つ星なので安心とは思います。 ですが何だか国営と言いながらも怪しいですね。 |
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■南京の水族館です。 |
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■南京:歴史のある都市であり、北京、安陽、西安、洛陽、開封、杭州と共に中国七大古都之一であり、紀元前472年に越王勾践が呉王夫差を破り、現在の中華門の南西にある雨花台に城を構え南京の城壁史が始まる。その後に東呉、東晋、南朝(六朝)の宋、斉、梁、陳、南唐、明が南京を都とした。明以降は太平天国、中華民国が首都に定めた。南京の名称は明代に始まり、それ以前は金陵、秣陵、建業、建康、白下、升州、江寧、集慶、応天の名があり、明成祖永楽帝が北京に遷都し応天府を南京と改称する。清朝では江寧と称し、太平天国では天京と改称し、辛亥革命(孫文)以降は名称を再び南京とし現在にいたる。但し、歴史としての日本との関わりも深いところです。雨花台の石(一部掲載、詳細は原石・岩石に掲載しました)は、非常に見事なものでした。
南京・長江大橋
■南京長江大橋(自動車、鉄道両用橋梁。長江北岸の浦口区と、長江南岸の南京城側の下関区とを連絡する。1960年に建設開始、1968年に完成。):揚子江に掛かる大橋は必見ものです。長さといい大きさといい流石大陸を実感しました。撮影は南京から。道路橋は全長4,589m、幅19.5m、長江にかかる主な部分は長さ1,577mであり、上部が道路、下部が鉄道(中国人民鉄道京滬線)と2階構造となっており、橋の両端には4つの橋頭堡があり、各橋頭堡の高さは70mである。鉄道橋は全長6,772m、幅14m、長江にかかる主な部分は道路橋同じく長さ1,577mである。
南京長江大橋 |
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南京大橋完成時に発行された切手。文化大革命の頃と思います。 |
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南京・中山陵
■中山陵は、孫文の陵墓。孫文は広東省出身。清朝打倒のため、1894年興中会を組織。1905年、東京で中国革命同盟会を結成して、民族の独立(民族主義)、民主制の実現(民権主義)、地権平均・資本節制による経済的不平等の是正(民生主義)の三民主義を主唱した。1911年には、辛亥革命により、清朝が倒れ、南京で中華民国臨時政府が樹立。孫中山は臨時大統領に就任。1925年、「革命未だ成らず」の言葉を残し逝去。波瀾万丈の生涯であった。逝去したのは北京で、北京の中山公園でしばらく安置されたのち、1929年、当時の首都であった南京へ移された。緑に囲まれた陵園の奥に祭堂がある。青い瓦と白い壁は、国民党の党旗でもある青天白日をあらわしています。
■南京にある中山稜(陵門)です。中山とは偉大な英雄・孫文のことで、日本や台湾だけでなく中国でも偉大な人として評価されているのだと思います。孫文がミイラ化されて保存されていると聞いてます。中山陵の西隣には世界文化遺産である「明孝陵」があります。 |
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南京の中山稜の風景 南京の中山稜 |
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■雨花石(中国、南京):家内と旅行で南京を2005年に訪問しました。非常に珍しいの触れ込みで雨花石を購入しました。 |
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雨花石 NO.1 (縞模様が有名です。) 鑑定書つき |
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一時期、南京に政府がありました。 その時に押印された特印です。 |
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南京・中華門
■南京の中華門は明代には雨花台の位置する聚宝山に由来し聚宝門と称されたが、1931年に現在の名前に改名された。周囲33.676Kmの南京城墻の一部であり南京城最大の城門であり東西の長さ128メートル、南北の長さ129メートル、面積16512平方メートルあり、3つの小城郭、4つの城門と27の蔵兵洞がある。 中華門には3000人の兵士を配置することが可能で南京防衛の要であった。中華門は城門であるがその規模の巨大さから要塞に近い。中国軍事史における現存する貴重な実物資料でもある。
■南京・中華門 ・・・ 日本軍の大きな汚点です。 |
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■南京・中華門の城壁からみた市街地の光景 |
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■南京・中華門の入口、入口側には土を掘ったトイレが |
■南京・中華門の城壁 兵士の人形と旗が |
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南京・中華門の出口 |
■南京・中華門の城壁からみた市街地の光景 |
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実際、南京の中華門にはトイレが無い。中国の方にトイレの問題などは個人的な価値観の問題なのでしょうね? |
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正直、歴史認識とは如何なるものでしょうか? 私は歴史や史実を真正面から受けています。 戦争をするなとは言いませんがしないで欲しい! 中国と日本の過去の忌まわしい経験や事実の記録を記憶として残したい。 |
■南京・中華門の城壁からみた市街地の光景 |
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昔の南京の写真(日中戦争時代)
日中戦争下の1937年12月、日本軍により南京が陥落すると、傀儡政権である汪兆銘の中華民国維新政府(後の汪兆銘政権)が発足し行政院、立法院、監察院、考試院、交通部、鉄道部、日本陸軍第16師団司令部などが置かれる。1945年に日本が連合国に対し降伏したことにより、汪兆銘政権も崩壊する。考試院(こうしいん)は中華民国(台湾)の公務員の人事に関する最高行政機関。日本の人事院に相当し、すべての公務員の採用試験や任用、管理等の人事管理を行っている。
戦争は絶対反対です。
南京の情報
■南京に関する情報です。
■「南京」という言葉は明治〜昭和初期の日本において、「外来の」「エキゾチックな」というニュアンスを含む接頭語としてしばしば用いられた。「南瓜(なんきん)=かぼちゃ」「南京虫」「南京錠」「南京豆」「南京袋」「南京玉すだれ」などの言葉はその名残りである。これらの品々は、必ずしも中国の南京から輸入されたとは限らないと言われています。
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