Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
国別・特殊切手|デッドカントリーの大陸別:アフリカ切手 アフリカは歴史に大きく左右・翻弄された所で、
ヨーロッパの列強が植民地政策を強烈に進めた場所です。その為にデッドカントリーが多数存在

ホーム>国別・特殊切手>アフリカ(デッドカントリー)

デッドカントリー アフリカ切手

 アフリカ地域は、歴史に大きく左右・翻弄された所で、ヨーロッパの列強が植民地政策を強烈に進めた場所です。その為にデッドカントリーが多数存在しています。南アフリカやコンゴ(カタンガ)、モザンビークの珍しい切手も掲載、イギリス・フランス関係が非常に多いのが特徴となっています。珍しいものとしてはナタール(NATAL)、喜望峰(Cape of GodHope)の世界最初の三角切手、オレンジ・リバー、カタンガ(KATANGA)、ニサヤ会社:ポルトガル時の北部の特許会社、モザンビーク会社:ポルトガル時の南部の特許会社 などがあげられます。ローデシアは今では複数の国に分断されています。1960年には18の植民地が独立し新たに国連加盟しました。 デッドカントリー(Dead Country)とは、領土の併合などにより、切手の発行を止めた国あるいは地域を指します。 掲載中の国は、旧イギリス領(ソマリランド ゴールドコースト) / 南アフリカ(喜望峰 ナタル トランスバール オレンジ・リバー トランスカイ シスカイ ベンダ ボプタツワナ ズールランド) /旧フランス領(オボク ソマリ 赤道アフリカ 西アフリカ ベナン ダオメ スーダン) / 旧スペイン領(モロッコ イフニ リオムニ フェルナンドポー サハラ タンジェル) / 旧ポルトガル領 旧イタリア領(トリポリタニア キレナイカ エリトリア) / 旧ドイツ領(トーゴ カメルーン タンガニカ 旧ベルギー領(コンゴ)

■海外写真集や世界遺産切手 [ 世界遺産:アフリカ 、写真:エジプト ]

■国別&面白切手のカテゴリ 
現行の国別[ アジア [ 日本 ]|アフリカヨーロッパ南北アメリカオセアニア  ] デッドカントリー[ 旧ソビエトと東ヨーロッパ西ヨーロッパアフリカアジア [ 琉球政府時代満州・占領時代 |旧中国関係 ]|南北アメリカオセアニア ] 面白切手特集[ 珍品・逸品(切手物識り)ブータン面白切手世界の変形切手COIN・紙幣切手切手の切手クラシック・書簡各国初期の切手FDC・初日印エンタイア日本人のふるさと心の風景の切手 ]
■世界の有名人切手 [ 古代エジプトのファラオ達やお妃 ]

国別・特殊切手 デッドカントリー アフリカ切手 数奇な運命の地域
は、画像をUPしています。は、これからUP予定です。 クリックしますと、拡大画像を表示します。

 旧イギリス領

     

kenya-uganda-tanganika

morocco

モザンビーク会社

南アフリカ会社

12

南アフリカ

ボプタツワナ 

GoldCoast

OrangeRiver 

喜望峰

南ローデシア
(今のジンバブエ)

北ローデシア(今のザンビア)

ローデシア

ローデシア・ニヤッサ
(今のマラウイ)

1 12 12

nyassa

nyassa会社

Nyasaland

Basoland 

12

Natal

 Swaziland

     

■イギリスは、1815年のウィーン議定書でオランダから手に入れたアフリカ南端のケープ植民地領を拡大し、南アフリカの内陸部に植民地を広げつつあった。イギリスはエジプトと南アフリカの南北ふたつの拠点から大陸を南北に貫くよう植民地の拡大に向かっていったので、これを大陸縦断政策という。 
■フランスはモロッコを影響下におくとともに、1830年にアルジェリア、1881年にチュニジアを保護国とした。フランスは北アフリカ西部のマグリブからサハラ砂漠を越えて大陸の中央部を西は大西洋から東は紅海、インド洋にいたる東西に広がった植民地の拡大を目指す大陸横断政策を推進した。1881年には東アフリカのアフリカの角西部にジブチ植民地を建設して大陸横断の東の終点としました。

 旧フランス領

     
 

gabon

somali

reunion 

123

赤道アフリカ

oubangi-chari 

guadeloupe 

アンジュマン 

1 12  

ディエゴ・スアレス

Guinee

北ナイジェリア

Tripolitania

 旧スペイン領

     

Morocco(モロッコ)

Rio-muni

Sahara

Tanger

Fernando-poo(今の赤道ギニア)

Guinra

Ifni(今のモロッコ)

 
12

 旧イタリア領

 

   

Eritrea

Tripolitania(今のリビア)

 旧ポルトガル領 

     

Guine

   

 旧ドイツ領

      
camerun(カメルーン) Morocco(モロッコ)    

Katanga
(カタンガ、今のコンゴ)

SWA
(南西アフリカ、今のナミビア)

   

■アフリカの1912年のヨーロッパの列強諸国の支配図です。エチオペアとリベリアを除きアフリカの全土が、ヨーロッパのわずか7か国によって分割支配されていました。アフリカを奴隷や象牙などの珍品の供給地としてではなく、工業のための原料の供給地とし、さらに工業製品の市場として囲い込む植民地とするほうが経済的に見合うと判断されるようになり、列強は全面的な植民地支配を目指す政策へと大きく転換した為です。エチオペアは、1935年の第二次エチオピア戦争後イタリアの支配下に置かれたが、第二次世界大戦後独立を取り戻した。アフリカはヨーロッパの列強が利権争いをする場所だったとつくづく感じます。アフリカ現地の人々を支配下に組み込み、ヨーロッパ式の宗教、政治制度、言語、文化を「与える」ことは、未開な人々を文明化する行為である(altruism)とみなされ、植民地獲得は文明の名のもとに正当化された。

1912年のアフリカ (Wikipediaから引用)

■1960年にはアフリカにあった植民地のうち、フランスの信託統治下にあったカメルーン・トーゴを先頭に、実に17カ国の独立国が続出した。フランスの画一的な政策のために、独立運動のほとんどなかったフランス植民地が、上記の両信任統治領を含めると、17も独立を達成したからであった。ソマリアのようにイギリス領ソマリランドと、イタリア信任統治領ソマリアという二つの植民が、独立して一つの国家になった例もあるので、1960年には18の植民地が独立したことになる。世界史のなかで同じ年にこれほど多くの植民地がいっせいに独立したことはまったく例がない。独立した諸国の多くはその年に国連に加盟した。

  

(代表的な切手)

南アフリカ関係

ナタール(NATAL):
1800年代

クワズール・ナタール州(アフリカーンス語: KwaZulu-Natal provinsie、英語: KwaZulu-Natal Province)は、南アフリカ共和国東南部の州である。かつてズールー族のズールー王国があったが、オランダ系のボーア人に滅ぼされ、1839年 オレンジ川上流域にナタール共和国を建設。1843年にイギリスに占領され、後に植民地となり、1910年に南アフリカ連邦の1州となった。

喜望峰(Cape of GodHope):
世界最初の三角切手1853年

■1497年11月22日、ポルトガルのヴァスコ・ダ゙・ガマが喜望峰に到着する。1657年 オランダ東インド会社のボーア人は会社の仕事から自由になって入植することが認められ、ケープ(現在のケープタウン)に定住するようになった。ここから南アフリカの白人社会が始まる。

オレンジ・リバー:
切手はオレンジの木

■1854年、オレンジ川中流域(バール川南岸)に、ブール人(アフリカーナー)によってオレンジ自由国(Republic of Orange Free State)を建てられた。 西部グリカランドのキンバリーでダイヤモンド鉱山が発見される。 第二次ブール戦争後の1902年、フェリーニヒング和平条約によってイギリスの植民地になった。 今は南ア連邦となっています。

コンゴ(congo)関係

カタンガ(KATANGA):

■カタンガ - Katanga 旧名はシャバ(Shaba)で、シャバの旧名でもある。 コンゴ民主共和国の南東部の地方名。タンザニアとザンビアの間に突き出すような形になっている。カタンガ - Katanga 旧名はシャバ(Shaba)で、シャバの旧名でもある。 コンゴ民主共和国の南東部の地方名。タンザニアとザンビアの間に突き出すような形になっている。

モザンビーグ関係

ポルトガル時代:

ニサヤ会社:
ポルトガル時の北部の特許会社 1921年

モザンビーク会社:
ポルトガル時の南部の特許会社 1937年

■16世紀末のバスコ・ダ・ガマの航海以来、ポルトガルはアフリカ南端の喜望峰回りで積極的にインドへ進出したが、その中継地として確保したのがモザンビーク。とはいえ、沿岸部に拠点を築くだけで、内陸部は長らく放置していたが、1891年に中央部(14万平方km)の行政権をモザンビーク会社に、93年には北部(20万平方km)の行政権をニアサ会社に与えて、本格的な開発に乗り出した。この2つの会社は警察権や徴税権、通貨発行権や郵便事業権などを擁し、鉄道の建設や鉱山の開発、農場経営などを行った。ただし司法権は与えられず、会社はモザンビーク政庁へ裁判所の運営経費や宗教活動への援助を負担する義務があった。 これらの会社はポルトガルの国策会社かと思いきや、実は英仏資本の会社で、実質的にはイギリスの支配下にあった。なんだかポルトガルの植民地がイギリスに乗っ取られたような形だが、この時期はポルトガル本国すら、イギリスの強い影響下に置かれていたのだ。 モザンビーク会社領の中心地・ベイラは、内陸部にあるイギリス植民地の南ローデシア(現:ジンバブエ)、北ローデシア(現:ザンビア)、ニアサランド(現:マラウイ)にとって、海への出口にあたる場所。これらの地域の農産物や鉱産物は、モザンピーク会社が建設した鉄道によってベイラ港へ運ばれ、海外へ輸出された。後にイギリスの介入は一層露骨になって、ベイラ港の港湾施設や鉄道は、モザンビーク会社からイギリス南アフリカ会社へ譲渡され、両社の間では役員の交換も行われて一体化が進んだ。またモザンビーク会社は南ローデシアやトランスヴァールで南アフリカ会社が経営する鉱山に、黒人労働者を送り込み、最盛期にはモザンビークから年間10万人近い黒人が出稼ぎに行ったという。(世界飛び地領土研究会様の情報から引用させていただきました)

 
 

デッドカントリー アフリカ切手

カウンター