デッドカントリー アフリカ切手
アフリカ地域は、歴史に大きく左右・翻弄された所で、ヨーロッパの列強が植民地政策を強烈に進めた場所です。その為にデッドカントリーが多数存在しています。南アフリカやコンゴ(カタンガ)、モザンビークの珍しい切手も掲載、イギリス・フランス関係が非常に多いのが特徴となっています。珍しいものとしてはナタール(NATAL)、喜望峰(Cape
of GodHope)の世界最初の三角切手、オレンジ・リバー、カタンガ(KATANGA)、ニサヤ会社:ポルトガル時の北部の特許会社、モザンビーク会社:ポルトガル時の南部の特許会社 などがあげられます。ローデシアは今では複数の国に分断されています。1960年には18の植民地が独立し新たに国連加盟しました。 デッドカントリー(Dead
Country)とは、領土の併合などにより、切手の発行を止めた国あるいは地域を指します。 掲載中の国は、旧イギリス領(ソマリランド ゴールドコースト) / 南アフリカ(喜望峰 ナタル トランスバール オレンジ・リバー トランスカイ シスカイ ベンダ ボプタツワナ ズールランド) /旧フランス領(オボク ソマリ 赤道アフリカ 西アフリカ ベナン ダオメ スーダン) / 旧スペイン領(モロッコ イフニ リオムニ フェルナンドポー サハラ タンジェル) / 旧ポルトガル領 旧イタリア領(トリポリタニア キレナイカ エリトリア) / 旧ドイツ領(トーゴ カメルーン タンガニカ 旧ベルギー領(コンゴ)
■国別&面白切手のカテゴリ |
(代表的な切手)
南アフリカ関係 | |
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ナタール(NATAL): |
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■クワズール・ナタール州(アフリカーンス語: KwaZulu-Natal provinsie、英語: KwaZulu-Natal Province)は、南アフリカ共和国東南部の州である。かつてズールー族のズールー王国があったが、オランダ系のボーア人に滅ぼされ、1839年 オレンジ川上流域にナタール共和国を建設。1843年にイギリスに占領され、後に植民地となり、1910年に南アフリカ連邦の1州となった。 |
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喜望峰(Cape of GodHope): |
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■1497年11月22日、ポルトガルのヴァスコ・ダ゙・ガマが喜望峰に到着する。1657年 オランダ東インド会社のボーア人は会社の仕事から自由になって入植することが認められ、ケープ(現在のケープタウン)に定住するようになった。ここから南アフリカの白人社会が始まる。 |
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オレンジ・リバー: |
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■1854年、オレンジ川中流域(バール川南岸)に、ブール人(アフリカーナー)によってオレンジ自由国(Republic of Orange Free State)を建てられた。 西部グリカランドのキンバリーでダイヤモンド鉱山が発見される。 第二次ブール戦争後の1902年、フェリーニヒング和平条約によってイギリスの植民地になった。 今は南ア連邦となっています。 |
コンゴ(congo)関係 |
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カタンガ(KATANGA): |
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■カタンガ - Katanga 旧名はシャバ(Shaba)で、シャバの旧名でもある。 コンゴ民主共和国の南東部の地方名。タンザニアとザンビアの間に突き出すような形になっている。カタンガ - Katanga 旧名はシャバ(Shaba)で、シャバの旧名でもある。 コンゴ民主共和国の南東部の地方名。タンザニアとザンビアの間に突き出すような形になっている。 |
モザンビーグ関係 |
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ポルトガル時代: |
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ニサヤ会社: |
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モザンビーク会社: |
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■16世紀末のバスコ・ダ・ガマの航海以来、ポルトガルはアフリカ南端の喜望峰回りで積極的にインドへ進出したが、その中継地として確保したのがモザンビーク。とはいえ、沿岸部に拠点を築くだけで、内陸部は長らく放置していたが、1891年に中央部(14万平方km)の行政権をモザンビーク会社に、93年には北部(20万平方km)の行政権をニアサ会社に与えて、本格的な開発に乗り出した。この2つの会社は警察権や徴税権、通貨発行権や郵便事業権などを擁し、鉄道の建設や鉱山の開発、農場経営などを行った。ただし司法権は与えられず、会社はモザンビーク政庁へ裁判所の運営経費や宗教活動への援助を負担する義務があった。 これらの会社はポルトガルの国策会社かと思いきや、実は英仏資本の会社で、実質的にはイギリスの支配下にあった。なんだかポルトガルの植民地がイギリスに乗っ取られたような形だが、この時期はポルトガル本国すら、イギリスの強い影響下に置かれていたのだ。 モザンビーク会社領の中心地・ベイラは、内陸部にあるイギリス植民地の南ローデシア(現:ジンバブエ)、北ローデシア(現:ザンビア)、ニアサランド(現:マラウイ)にとって、海への出口にあたる場所。これらの地域の農産物や鉱産物は、モザンピーク会社が建設した鉄道によってベイラ港へ運ばれ、海外へ輸出された。後にイギリスの介入は一層露骨になって、ベイラ港の港湾施設や鉄道は、モザンビーク会社からイギリス南アフリカ会社へ譲渡され、両社の間では役員の交換も行われて一体化が進んだ。またモザンビーク会社は南ローデシアやトランスヴァールで南アフリカ会社が経営する鉱山に、黒人労働者を送り込み、最盛期にはモザンビークから年間10万人近い黒人が出稼ぎに行ったという。(「世界飛び地領土研究会」様の情報から引用させていただきました) |
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