Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
有名人の切手|古代エジプトのファラオ(pharaoh)やお妃達 エジプトの三大美女(ネフェルティティ、ネフェルタリ、クレオパトラ)も
アメリカ合衆国のボストン美術館とメトロポリタン美術館で見つけたファラオの像の写真も掲載。

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古代エジプトのファラオ(pharaoh)やお妃達の切手

 古代エジプト王朝(B.C.3150年-A.D.30年)のファラオ(pharaoh)、宰相やお妃達の切手です。 ファラオは古代エジプト語のペルオに由来するギリシア語。ペルオはもとは大いなる館すなわち王宮をさすことばであったが、第18王朝のトゥトメス3世が王をさすことばとして用いて以来、それが習慣化した。トゥトメス3世以前の王、したがって古王国時代の王も今日ではこの用語でよぶ。王は五つの称号をもっていて、そのなかの個人に関係する二つの称号(即位名、誕生名)はカルトゥシュ(楕円(だえん)形の枠)の中に記された。  男性の王だけでなくお妃も含めて入れました。 エジプトの三大美女(ネフェルティティ、ネフェルタリ、クレオパトラ)の切手も掲載。
アメリカ合衆国のボストン美術館とメトロポリタン美術館で見つけたファラオの像の写真も掲載。
 

 

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古代エジプトのファラオ(pharaoh)やお妃達

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古代エジプトのファラオ(男性)・宰相

ファラオの一覧 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

古王国時代

第3王朝のジェセル王

■イムホテプ (Imhotep, Immutef, Im-hotep, Ii-em-Hotep, Imuthes) は、古代エジプト時代、第3王朝のジェセル王に仕えた宰相(B.C.2690年頃-2610年頃)です。 トト神の神官であり、祭儀文朗読神官長の地位にあったが、ナイル川が7年にわたって氾濫せず、深刻な飢饉が発生した際、ジェセル王からどうすべきか下問されたところ、ナイル川の水源の主であるクヌムの神殿に土地を寄進すれば再びナイル川は氾濫するであろう、と答えたと記す古代文書が発見されている。 また、史上初のピラミッドといわれる、サッカラの階段ピラミッドを設計したことでも知られる。建築家としてのみならず、内科医としても優れ、死後「知恵、医術と魔法の神」として神格化され、ギリシャの医神アスクレーピオスと同一視された。

イムホテプ宰相
(エジプト,1928年)

イムホテプの絵画(エジプト,1928年)

第4王朝のメンカフラー王

第4王朝のカフラー王

■カフラー(KhafraまたはKhafre, Chephren、?-紀元前2480年)はエジプト第4王朝のファラオで、メンフィスを首都とした。ハフラーとも言う。クフの兄弟で後継であるとする歴史家もいるが、クフの息子ジェドエフラーの兄弟、後継者とする説が一般的である。彼の名前のKhaf-Raとは、「ラーのように現れる(上る)」という意味であり、おそらく初めてヒエログリフで王冠とともに描かれた名前である。スフィンクスとともに作られたカフラー王のピラミッドは、ギザの三大ピラミッドの中で2番目に大きい。カフラー王のピラミッド(Khafre's Pyramid)とは、ファラオ、カフラー王のピラミッドで、三大ピラミッドのうちクフ王のピラミッドに次ぎ2番目の大きさであるが、クフ王のピラミッドより高い台地に建てられているため、人の目には一番高く見える。像の背中にはホルス神が。

ハトホル、バトの女神を左右に従えたメンカウラー王の三体像

■メンカウラー(Menkaure又はMenkaura、生没年不明)はエジプト第4王朝のファラオ(5代目)で、在位は紀元前2532年から紀元前2504年。メンカウラーとは、ラーの魂のように永遠である」という意。父はカフラーであり、母はカメレルネブチ1世。ギザの第3ピラミッドがメンカウラーのもの。切手は「ハトホル、バトの女神を左右に従えたメンカウラー王の三体像」(1948年)。

第5王朝のウナス王(userkaf)

■Userkaf, traditionally the first ruler of the 5th Dynasty is, like most of the other kings of the dynasty, not well attested. We are even uncertain of his father, though he may have been a priest. His mother was probably Neferhetep, making him the grandson of Djedefre who succeeded Khufu. We believe he was married to Khentkaues I, who is buried at Giza. This marriage may have legitimized his claim to the throne. We believe that Khentkaues I was probably Menkaure's daughter and perhaps a half sister of Shepseskaf. Oddly, nowhere in her tomb is Userkaf mentioned. There was apparently another queen (possibly), who's pyramid lies close to the pyramid of Userkaf's at Saqqara.
ウナス王というのは古王国時代、ピラミッド時代の翳りが見えてきた頃、つまり、そろそろ危ないなあという時代、の王です。ウナス王が目標にした人物はピラミッドをはじめて作ったジェセル王です。サッカラのジェセル王の階段プラミッドの脇にウナス王は自分のピラミッドを作ったのです。それまでピラミッドの中には一切碑文、刻文というものが書かれていなかったのですが、ウナス王はピラミッドの中にピラミッド・テキストというものを初めて彫り込んだのです。

第5王朝 ネフェルエフラー

■ネフェルイルカラーと王妃ケンタカウエス2世の息子だった第5王朝ネフェルエフラー(B.C.2500年頃)が即位した。しかし彼の治世も短かったであろうと推定されている。ネフェルエフラーの墓から、彼のミイラの一部が発見されているが、その分析の結果ネフェルエフラーは20代前半で死去したことがわかっている。ピラミッド未完。

第6王朝 ペピ1世

■ペピ1世(Pepi I)は、第6王朝のファラオで、B,C.2332〜2283年,
テティ王の息子。サッカラのテティ王のピラミッド同様、内部にはピラミッド・テキストが刻まれている。(真正ピラミッド) 第6王朝最大の王。エジプト国立博物館所蔵のヒエラコンポリスで発見された王と息子の銅製立像は現存する最古の銅像。

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新王国時代

第18王朝 アメンホテプ3世

第18王朝 アメンホテプ2世

■アメンホテプ3世(Amenhotep III) ネブマアトラー 在位は、B.C.1386 - 1349年頃、即位名はネブマアトラー。「真実の主はラーなり」の意。正妻はティイ。子はアメンホテプ4世など。トトメス3世、トトメス4世の時代を経て絶頂に達した王国を継承した。在位期間も長く、40年近くに及んだ。アメン神を崇敬すること篤く、テーベにカルナックのアメン神殿と直結する分神殿としてルクソール神殿を建設している。このほか、同地に広大な自身の葬祭殿も建設している。葬祭殿は後に後代の王たちによって破壊されたが、メムノンの巨像(ルクソール西岸)と呼ばれる彼の坐像は破壊されずに残り、現在でも形をとどめている。

■アメンホテプ2世(Amenhotep II、在位:B.C.1453-1419年、あるいはB.C.1427年-1400年)は、古代エジプト第18王朝の第7代ファラオ(王)。即位名はアアケペルウラー。意味は「偉大なるかなラー神の出現」。 父トトメス3世同様に遠征を行い、内政でも見事な手腕を発揮して父が回復したエジプトの国威と広大な帝国を維持することに成功した。 陵墓は後に王家の谷と呼ばれる土地に築かれ、後代には王たちのミイラを墓荒らしから守るために安置する場所として使われた。また彼のミイラはカイロのエジプト考古学博物館に所蔵されており、身長183センチと、現存するファラオのミイラの中では最も長身とされている。
■アメンホテプ4世(アメンホテプ4世、Amenhotep IV)は古代エジプト第18王朝の王(ファラオ)で、生年紀元前1362年?〜没年紀元前1333年?、在位期間は紀元前1353年?〜紀元前1336年?ころである。父はアメンホテプ3世、母は正妃ティイといわれる。後に改名してアクエンアテン(Akhenaten、イクナートンとも)と名乗る。彼の行った改革は、アマルナ改革として有名である。(詳細は後述)

第18王朝 アメンホテプ4世

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第18王朝 ツタンカーメン

ツタンカーメン
(古代エジプト第18王朝の
ファラオ(在位:1333年B.C頃
- 1324年B.C頃))

■ツタンカーメンの名が公に知られるようになったのは、皮肉なことに、即位後数年で死んでしまい、大きな功績を残せなかったことにあります。ツタンカーメンは、本来ならば歴代のファラオ達と共に名を刻まれるはずだったのに、若さ故か、功績のなさ故か、エジプトの歴史からは抹消されてしまっていたのです。しかし、やはり名を刻まれなくともツタンカーメンはファラオであり、ピラミッドはしっかり作られています。しかし、忘れさられたツタンカーメンの墓は、三千年を越える時の流れの果て、1922年にやっと発見されたのでした。おじいさんはアメンホテプ3世です。

FUJIEIRA(アラブ首長国)
発行のツタンカーメン

ツタンカーメンと黄金の玉座(椅子)に描かれた王の名前ほか(エジプト、1972年)

FUJIEIRA(アラブ首長国)発行のツタンカーメン エジプト時代

ツタンカーメンと王座に描かれた王の名前ほか

■ツタンカーメンの父・イクナシオン:王都アケトアテンに宮廷を構えたアメンホテプ4世(イクナテン王と名乗る)は王妃ネフェルトイテイと二人、アテン神崇拝で自由な礼拝に明け暮れることとなる。古代からあるエジプトの万の神々を禁止し、神はひとつ「アテン神」崇拝の宗教革命を謳う王の姿から、生命についての素晴らしい感受性や顕現がみてとれる。側室キヤの間に生まれたのがツタンカーメンである。ツタンカーメンは自分の父親の宗教改革で、それを改宗するが一時的に歴史から抹殺されてしまう。19年の生涯。ややこしい事に王妃アンケセナーメンは異母兄妹です。

ツタンカーメンと義理の母・ネフェルティティ女王(アメンホテプ4世の妃)

アメンホテプ4世(エジプト,1928年)

エジプト ツタンカーメン王 黄金のマスク ツタンカーメンと義理の母・ネフェルティティ アメンホテプの彫像(エジプト,1928年)

【アメンホテプ4世】:アメンホテプからイクナートンへと改称

ツタンカーメンの黄金のマスク
(モザンビーク)

ツタンカーメンの父で、新王国時代・B.C.14世紀頃の王イクナートン(イク・ン・アトン、アクエンアテン)と、クレオパトラと並び称される絶世の美女と言われるネフェルティティ王妃ほかの彫像。
(エジプト、1977年)

 

ツタンカーメン(エジプト)

下の絵の左の2人はツタンカーメンと王妃アンケセナーメンで黄金の玉座に描かれたもの。

ツタンカーメン(エジプト) ツタンカーメンと王妃アンケセナーメンで玉座に描かれたもの。

ツタンカーメン立像
(右、エジプト)王家の谷

ツタンカーメン(Tutankhamun、Tutenkh-、-amen、-amonとも、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン(Tut-ankh-amen)という。この王名を「ツタンカーメン」と呼び、世界に広げたのは日本人によるもの。

■ホルエムヘプ(Horemheb)は、アメンホテプ3世の軍の総指揮官であった。アイの死で王を名乗り、ネフェルティティの妹ムトノメジットと結婚して王家の血を受け継いだ。ツタンカーメンやアイの建造物に自分の名を刻み、王名表にアメンホテプ3世の次の王として位置付けた。30年間の治世で国内の政治に腐心した。墓は将軍時代に造ったものと、王家の谷とで二つある。盗掘にあい、ミイラも不明。

ホルエムヘプ(Horemheb)

ツタンカーメンの護衛の像

ツタンカーメンの黄金のマスク

ホルエムヘプ(Horemheb) ツタンカーメンの護衛の像

■ホルエムヘプ(Horemheb)は、アメンホテプ4世の死後、神官アイと素タンカーメンを王として擁立。首都をメンフィスに移してアメン信仰への復興政策を推し進める。しかしツタンカーメンが亡くなると、アイの短期の時代を過ぎ急ぎ王位についたが、この代で第18王朝は終わった。第19王朝はラムセスの時代。


切手はネフェルティティ女王とツタンカーメンの黄金のマスクとスフィンクス(エジプト、2005年)

ピラミッドは土台の上に立てられたそうです。

ツタンカーメンの黄金のマスク

中央アフリカで発行されたツタンカーメンの黄金マスク、黄金の玉座  世界遺産アフリカでも

エジプト ツタンカーメン 切手 中央アフリカで発行されたツタンカーメン

第18王朝 トトメス3世

トトメス3世は、古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(在位:B.C.1479年頃 - B.C.1425年頃)。名の意味は「トート神の造りしもの」である。即位名はメンケペルラー、意味は「ラー神の顕現は永続なり」である。トトメス2世の子。 父王トトメス2世によって後継者に指名されていたが、幼くして父王が亡くなったため、継母ハトシェプストが即位、全権を掌握することになる。治世の前半は、ハトシェプスト女王の補佐という形でしか政治を行えず、大半の時間を軍隊で過ごしたと伝わる。 この時期の経験から高い軍事的能力を身につけ、ハトシェプストの退位後となる治世の後半はハトシェプスト時代の外交を改めて周辺諸国に遠征し、国威を回復、エジプト史上最大の帝国を築いた。

第18王朝 トトメス3世

■新王国時代第19王朝に君臨したラムセス2世(Ramesses II、在位はB.C.1279 - 1212年頃)は、古代エジプトで最も有名なファラオ。当時には稀な180cmもの長身で、20代で即位し、果敢に外征を行い征服王として名を馳せました。その治世は70年近くに及び、100人以上の子供をもうけ、90歳前後の長寿を全うしたといわれている歴代ファラオの中でもヒーロー的存在。 アブ・シンベル神殿を造営。

■ラムセス3世はラムセス2世に次ぐ偉大なる王と古代エジプト3000年の歴史にいわれています。ラムセス3世はしばしば「最後の偉大な王」などと呼ばれ、新王国が繁栄した時代を統治した最後の王であると見なされている。関連:ルクソールのカルナック神殿。

ラムセス2世と
アブ・シンベル神殿

アブ・シンベル神殿
ラムセス2世像

ラムセス2世(エジプト)

ラムセス2世(エジプト)

ラムセス2世とアブシンベル エジプト ラムセス2世(エジプト)

ラムセス3世像

ラムセス2世(エジプト、1921年)

ラムセス2世(エジプト、1958年)

ラムセス2世(エジプト、1973年)

ミシン目の エラー切手

第19王朝 メルエンプタハ

第19王朝 アメンメセス

メルエンプタハ(Merneptah、在位:紀元前1212 - 紀元前1202年)は、古代エジプト第19王朝第4代目のファラオ。ラムセス2世の第十三王子。メルエンプタハは誕生名であり、即位名は不詳。王妃は数人確認されている。子はセティ・メルエンプタハ、アメンメセス(母はタカト)らがいる。60歳を超え即位。

■アメンメセス(Amenmesse、在位はB.C.1202 - 1199年頃) メンミラー・セテプエンラー(Menmire - Setepenre)。父は、メルエンプタハ(Merneptah)、母はクイーンTakhat(タカト)。 KV10 、王家の谷
カルナック神殿やルクソール神殿にも関連。

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古代エジプトのファラオ(女性)やお妃

■世界三大美女は、クレオパトラ7世、楊貴妃、ヘレネが定説です。日本ではヘレネの代わりに小野小町(「日本の文化人・有名人・著名人の切手」で紹介)が入れることが多い。基本的には、歴史の流れを彼女たち自身の男性を魅了する力で変えたことが、「美人」たる所以となっている。実際にはクレオパトラ7世は「絶世の美女」というほどの美貌ではなかったと考えられており、同様に楊貴妃も太っていたと考えられる逸話があるなどメディアで見られる東洋的美人とは異なるという指摘もある。また、オーストリア皇后エリーザベト(「オーストリア写真集」に絵画を掲載)を加えて世界四大美女とする場合もあります。

■「古代エジプトの三大美女」と言えば、B.C.1世紀、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世、B.C.13世紀、第19王朝の大王ラムセス2世の正妃ネフェルタリ、そしてこのネフェルティティ女王(1386B.C.-1349B.C.)があげられる。 下は、エジプトの三大美女

ラムセス2世と王妃ネフェルタリ

ラムセス2世とネフェルティティ

ネフェルティティ女王

女王クレオパトラ7世

ツタンカーメンとアンケセナーメン(エジプト、1972年)



この絵は黄金の玉座(椅子)に描かれた庭に居て仲睦まじい
ツタンカーメンと妃アンケセナーメンの様子を描く

王妃ネフェルタリ

ネフェルティティ女王

■ネフェルティティ女王
(1386BC-1349BC )

いずれも、ベルリンのエジプト博物館にある、ネフェルティティの胸像

■ネフェルティティ(Nefertiti)…。これも言いにくい名前ですね…。いろんな読み方がありますが、日本では「ネフェルティティ」というのが一番ポピュラーです。意味は「ネフェル」が「美しい」、「ティ」は「やってくる」、「歩いてくる」ということです。ですから「美人が向こうからやってくる」、というような意味です。では、どこからやってくるのか?と言う事になりますね。この人、エジプト人ではないんですね。古代エジプトの三大美人といいますとこのネフェルティティ、ネフェルタリ、そしてクレオパトラなんですが、ネフェルティティは今のイラクのあたり、ミタンニということろからきました。エジプト最後の女王といわれるクレオパトラはギリシャ人ですね。ネフェルタリはエジプト人です。(吉村作治 エジプト博物館より抜粋)
ネフェルティティは、クレオパトラと並んで美女の代名詞にもなっている。「古代エジプトの三大美女」と言えば、B.C.1世紀、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世、B.C.13世紀、第19王朝の大王ラムセス2世の正妃ネフェルタリ、そしてこのネフェルティティがあげられる。ヒトラーがこよなく愛した女性です。

エジプト時代 ネフェルティティ女王 エジプト時代 ネフェルティティ女王エジプト時代 ネフェルティティ女王

ネフェルティティ女王
(イラク、1966年)

ネフェルティティ女王(エジプト)

ネフェルティティ女王

ネフェルタリ王妃
(モザンビーク,2002)

ネフェルティティ女王 アブシンベル 世界遺産 イラク

クレオパトラ7世とピラミッドと遺物(エジプト、2005年)

クレオパトラ7世とピラミッド

■ネフェルタリ(Nefertari, NeFeRTaRi) はラムセスとの地上を越えた愛と、その伝説的な美しさで有名であった。彼女の時代より1世紀前の異端のファラオ・アクエンアテンの正妃ネフェルティティの美しさは、ヒットラーが胸像をドイツに持ち帰る程の美しさで、20世紀になって発見された胸像によって広く知られたが、ネフェルタリは、古代エジプトの歴史にあって、いまも昔も、愛と美を具現した王妃である。ネフェルタリは夫ラムセスに深く愛されていたと見られ、王妃の谷のなかにあって、もっとも壮麗な彼女の王妃墓-QV66からもそれが伺える。ラムセスはこの最愛の妻を、「そなたが為、太陽の燿く者」と呼んだ。メリトアモンをはじめ、5人の息子と娘を儲けたが、ネフェルタリは若くして世を去ることとなった。

王妃ティイ(Tiy)

■アメンホテプ3世の王妃ティイ(Tiy)という方はなかなかすごい人です。どうすごいかというと、エジプトの政治を変えてしまった。 当時の宗教であるアメン神を中心として、下エジプトの主たる神であるラーと一緒になってアメンラーとなった。それまでエジプトの国家神はラー神だったのですが、その国家神の力と習合したということです。ティイはミタンニという、今のイラクあたりにあった国の人でした。2008年、「メムノンの巨像(Colossi of Memnon)」で巨像発見。

メリタトン(MeRiT-aToN) 在位2年(B.C.1348年) エジプト2000年

王妃ティイ(Tiy) メリタトン(MeRiT-aToN) 在位2年(紀元前1348年)

■メリタトン(MeRiT-aToN) 在位2年(B.C.1348年) は、ネフェルティティが、いつアクエンアテン(アメンホテプ4世、(Akhenaten、イクナートンとも))と結婚したのか、またいつ正妃となったのか、正確な年や日付は不明である。しかし彼女はアクエンアテンとのあいだに6人の娘を生んだことは知られている。そのうちの一人。ホルエムヘプ(Horemheb)の妻:ムトネジュメト(父:エジプト王ケペルケペルウラー・アイ)

Nofret

クレオパトラ(Cleopatra、エジプト、1914年)

Nofret was a noblewoman and princess who lived in Ancient Egypt during the 4th dynasty of Egypt.

カイロ博物館にも旦那さんと一緒にある貴族の夫人(「Seated statues of Prince Rahotep and his wife」 B.C.2610)。真っ白な衣類を着けていました。

クレオパトラ(Cleopatra、エジプト、1914年)

■クレオパトラ7世フィロパトル(ラテン語: Cleopatra VII Philopator、B.C.70年12月またはB.C.69年1月−B.C.30年8月12日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオである。父はプトレマイオス12世アウレテス、母はクレオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の名はギリシャ語で「父の栄光」を意味する。一般に「クレオパトラ」の名で知られる。 また「絶世の美女」として知られ、世界三大美女の一人とされ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美しい声であったと伝えられる。

アンケセナーメン

■アンケセナーメン(Ankhesenamen,紀元前1344年頃-不明)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオ、アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女であり、ファラオ ツタンカーメンの妻。当初の名をアンケセンパーテン(Ankhesenpaaten)といい、実父アクエンアテンの妻だった時期もあるが、アクエンアテンの死後、ツタンカーメンの妻となったさいにアテン神からアメン神に信仰を変えアンケセナーメンと改名した。

アンケセナーメン
 

ツタンカーメンとアンケセナーメンは仲が良かったそうだ

ヌビア遺跡保護 アブシンベル小神殿とネフェルタリ(レバノン)

ハンスマカルトが描く”Death of Cleopatra (クレオパトラの死)”

ヌビア遺跡保護 アブシンベル小神殿とネフェルタリ(レバノン) ヌビア遺跡保護 アブシンベル小神殿とネフェルタリ(レバノン) ハンスマカルトが描く”Death of Cleopatra (クレオパトラの死)”

■勇猛さで知られたアントニーであったが、今は愛妻のクレオパトラに夢中で、完全に骨抜きになり政務を省みなかった。恋に溺れたアントニーはオクテイヴィアスに大敗。アントニーはクレオパトラを逆恨みするが、これを聞いたクレオパトラは、自らが自殺したと嘘を流し、様子を見ることにした。だがこれを耳にしたアントニーは嘘を信じてしまい、悲観にくれて自殺する。オクテイヴィアスはクレオパトラをローマに連れて行こうとしたが、クレオパトラは毒蛇に体を噛ませ自殺する。 そのシーンを描いたもの、ハンスマカルトはクリムトの絵画の師匠的な存在。

クレオパトラ(Cleopatra、
エジプト、1922年)

クレオパトラ(Cleopatra、エジプト、1922年)
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古代エジプトのファラオやお妃の像(写真)

古代エジプトの像 ギザのメンカウラー王神殿で発掘された
ハトホル、バトの女神を左右に従えたメンカウラー王の三体像(カイロ美術館) ボストン美術館に展示

ギザのメンカウラー王神殿で発掘されたハトホル、バトの女神を左右に従えたメンカウラー王の三体像(カイロ美術館) ギザのメンカウラー王神殿で発掘されたメンカウラー王と2神像

古代エジプトの像 ギザのメンカウラー王神殿で発掘されたメ王と王妃の二体像(ボストン美術館)
King Mycerinus (Menkaura) and his queen

ユニ(Yuny)の像 
1304-1237B.C
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ギザのメンカウラー王神殿で発掘されたメンカウラー王と妃の像 ギザのメンカウラー王神殿で発掘されたメンカウラー王と妃の像 ユニ(Yuny)の像 1304-1237B.C

Yuny or Iuny was an official through the reign of Ramesses II, in the 19th Dynasty, serving as chief scribe of the court, the overseer of priests, and royal steward. His tomb at Deir Durunka, south of Assiut, portrays Yuny as an hereditary prince and a count. A life-sized statue of him was discovered in his tomb.  ユニはラムセスU世の書記長、父アメンヘテプの墓で発見された。


有名人の切手|古代エジプトのファラオ(pharaoh)やお妃達 
エジプトの三大美女(ネフェルティティ、ネフェルタリ、クレオパトラ)も

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