Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

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国別・特殊切手|デッドカントリー:旧日本軍の満州・中国や南方占領時代に発行された切手 

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満州・中国や南方占領時代に発行された切手

 旧日本軍が第2次世界大戦(大東亜戦争)含め、満州(Manchuria)やアジアの各地域(中国、台湾、東南アジア)での占領時代に発行された切手(Stamp)です。 私は敢えて軍国主義を唱えるのでなく、その時代の切手を中心に歴史を考えています。 本来の満州(満洲、まんしゅう、アルファベットによる満州語表記:Manju)は、中国東北部およびロシア沿海州を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。曾ては、高句麗や渤海国、遼(契丹)、そして金国があった地域であり、後金・清朝を建国した満州民族の故地です。 日本や切手の世界で満洲と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲となります。 そのほかでは、中国(華北、蒙疆、華中、華南)、台湾や東南アジア(ビルマ、マラヤ、海峡植民地、海軍民政府、フィリピン他)での占領下で発行された切手や連合軍が発行した日本切手に韓国のハングル加刷や在外国局切手(「支那」、「朝鮮」加刷)も掲載しました。  「満州」のニュース情報も掲載中。


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国別・特殊切手 デッドカントリー 満州・中国や南方占領時代に発行された切手

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 満州(満洲国、まんしゅうこく、英: Manchukuo)

■満州国(満洲国、まんしゅうこく、英: Manchukuo,Manchuria)は、1932年から1945年の間、満州(南満洲:現在の中国東北部)に存在した国家。満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。満洲国以前の女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となっていたが、1931年(昭和6年)柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発。関東軍(大日本帝国陸軍)は満洲全土を占領、1932年(昭和7年)満洲国を建国し、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を据えた。溥儀は当初は執政、後に皇帝となった。また満洲国は国家理念として、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を掲げた国民国家であることを宣言した。中国国民党政府からの分離独立宣をもとに成立した。
■満州国の郵便史では、1932年から1945年まで満州切手が存在しました。最初の切手は、1932年7月26日に「満州国郵政」と国名表示がされ、遼陽の白塔と満州国皇帝・溥儀が描かれたもので、最後は1945年の不発行切手で「飛行機購入付加金つき」の切手4種でした。 その間160枚を超える種類の切手が発行されています。 当時、満州国を「国家」として承認したのはビルマ国など日本の傀儡政権を除けば最大13ヶ国に過ぎなかった。 しかし、日本と中華民国は満州事変の停戦協定である塘沽協定を1933年5月31日に締結し、両国の軍隊は所定のラインまで後退したことから、中華民国は事実上満州国の存在を追認せざるをえなくなった。その後1934年9月から、双方の代表者の協議が始まり、同年11月24日に両国間で双方の郵便物交換に関する満華通郵協定が成立し、1935年1月1日から停止されていた郵便物交換が再開された。この時に発行されたのが「満華通郵切手」です。

■右の切手は、蘭花紋章を描く「満華」通常切手(満州国、1935年発行)の3種。満州切手収集家には入手しがたい切手です。実際には蘭花はランではなく匂いが良い花を中国ではランと呼んでいました。この花はフジバカマです。ラン切手収集家を泣かせた事件でした。

「満華」通常切手(1935-7年) 満華通郵

満州の地図と国旗

蘭花紋章を描く「満華」通常切手(満州国、1935年発行)の3種 満州 建国1周年(1933年) 切手

建国1周年(1933年)

満州(旧占領地)

■左は満州鉄道(満鉄)の特急「あじあ」号パシナ形2C1形過熱テンダー機関車南満州鉄道株式会社(略称: 満鉄.)は、日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで中国東北部(旧満州)に存在した日本の特殊会社である。

満州(遼陽の白塔)

満州の地図(1937年)

満州(旧占領地) 鉄道1万キロ突破記念 1939年 切手

鉄道1万キロ突破記念 1939年

満州の地図 占領地 切手

■漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)で大多数を占める民族。この言葉が用いられ始めたのは19世紀以後で、清朝を建てた満州人と、元々の居住者を区別するためであった。また、満州民族(満洲民族 まんしゅうみんぞく)、満州族(まんしゅうぞく)は、満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。満州語とは満州族が話す言語。満州語は、言語学的にはツングース諸語に分類される膠着語である。アルタイ語族があるとすればツングース語派に分類されることになる。満州語の表記は、モンゴル文字を改良して作られた満州文字を使います。

普通切手・皇帝愛新覚羅溥儀(満州)

普通切手・洛陽の白塔

普通切手・溥儀(満州)

普通切手・洛陽の白塔(満州、1932-6年、1-3次)

普通切手・洛陽の白塔(満州、1932-6年、1-3次)

■1931年(昭和6年)柳条湖事件に端を発した満州事変(実質的には日本軍の中国への侵略戦争)が勃発。関東軍(大日本帝国陸軍)は満洲全土を占領、1932年(昭和7年)満洲国を建国し、元首として滅亡した清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ、北京の故宮に縁戚の方がいます。)を迎えた。溥儀は当初は執政、後に皇帝となった。愛新覚羅溥儀の満洲国は国家理念として、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を掲げた国民国家であることを宣言した。1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦の日本の敗戦により満洲国は崩壊する。

第4次普通切手(満州、1936-7年) 国務院庁舎、荷馬車、奉天北陵、熱河離宮

第4次普通切手(満州、1936-7年) 国務院庁舎、荷馬車、奉天北陵、熱河離宮

「満州国」赤十字社創立記念と5周年(1938,43年)

第2回満州皇帝訪日(1940年) 軍艦旗とツル

「満州国」赤十字社創立記念と5周年(1938,43年)「満州国」赤十字社創立記念と5周年(1938,43年) 第2回満州皇帝訪日(1940年) 軍艦旗とツル

臨時国勢調査(満州、1940年)

国兵法実施(満州、1941年)

普通切手(満州、満華通郵、1937年)

増産奨励宣伝(満州、1943年)

臨時国勢調査(満州、1940年) 国兵法実施(満州、1941年) 増産奨励宣伝(満州、1943年)

■「満華通郵切手」(満華通郵)は中国本土との郵便物に添付するために発行されたものであった。満華通郵協定には、満州国からの郵便物に貼られる切手には「満州国」の国名表記を用いない、消印に満州国独自の年号は使用しない、消印の地名には「新京」といった満州国独自のものは使用しないという取決めがあった。そのため、国名表記を取り除いた専用切手が発行されていた。 ただし、この図案には満州国の国章である蘭花紋章が描かれていた。また、用意された図案2種類のうちもうひとつには満州族が聖地としていた長白山(日本では一般的に朝鮮側呼称の白頭山が用いられる)の天池が描かれており、満州国の切手であるのは明白であった。 参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

日本紀元2600年記念(1940年)「張国務総理の書」と「龍灯の踊り」

満州に関する書籍紹介

満州 日本紀元2600年記念(1940年)張国務総理の書」と龍灯の踊り

「皇帝」召書10周年

勤労奉公法施行記念

「皇帝」召書10周年 満州 勤労奉公法施行記念 満州 1943年

満州、1943年

年賀・双喜の文字
(満州、1937年)

日満郵便条約
(満州、1936年)

登極記念(満州、1934年) 宮内府勤民楼、鳳凰に瑞雲

年賀・双喜の文字(満州、1937年) 日満郵便条約(満州、1936年) 登極記念(満州、1934年) 宮内府勤民楼、鳳凰に瑞雲

「建国」5周年(満州、1937年) 太陽と瑞雲、大厦高楼と影絵

「国都」建設記念(満州、1937年)

「建国」5周年(満州、1937年) 太陽と瑞雲、大厦高楼と影絵 「建国」5周年(満州、1937年) 太陽と瑞雲、大厦高楼と影絵 「国都」建設記念(満州、1937年)

航空切手(満州、1937年) シンガポール陥落記念(満州、1942年)

新京居留民会(満州、1937年) 治外法権撤廃記念

航空切手(満州、1937年)  新京居留民会(満州、1937年) 治外法権撤廃記念

「日満」共同体宣伝切手(1944年)

■満洲国崩壊までに発行した切手の種類は160を超え、記念切手も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手が多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。また、郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。満洲国で最後の発行となった郵便切手は、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手だったが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。

「日満」共同体宣伝切手(1944年) 満州

大東亜戦争1周年(満州、1942年)

「暫作」改値加刷(満州、1937年)
大東亜戦争1周年(満州、1942年) 「暫作」改値加刷(満州、1937年) 「暫作」改値加刷(満州、1937年)

■満州の新京駅の絵葉書。新京(しんきょう)は満洲国の首都。新京特別市。現在の中華人民共和国吉林省長春市にあたる。満洲国建国直後の1932年(大同元年)3月9日、長春に於いて建国式典及び清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の執政就任式が執り行われた。翌3月10日、満洲国国務院は満洲国の国都(首都)を長春に定め、3月14日には国都長春を新国家の首都に相応しい名称として「新京」と命名し、新京特別市が誕生した。

新京駅の駅名標は漢字・ローマ字・キリル文字で書かれており、日本語・中国語・英語・モンゴル語・ロシア語に対応する。

満州「建国」10周年(1942年)忠霊廟、農夫と漁夫、「王」字の中に「満州国」鳥瞰図(10f)、
手をつなぐ5民族(日、漢、満、蒙、朝)の少女、「満州国」の国旗(20f、横になっている)・・・満州国の理念「五族協和」

満州「建国」10周年(1942年)忠霊廟、農夫と漁夫、「王」字の中に「満州国」鳥瞰図(10f)、手をつなぐ5民族(日、漢、満、蒙、朝)の少女、「満州国」の国旗(20f、横になっている)

「満州国」皇帝(溥儀)来訪(日本、1935年) 「比叡」と遼陽の白塔、赤坂離宮

「満州国」皇帝(溥儀)来訪(日本、1935年) 「比叡」と遼陽の白塔、赤坂離宮 「満州国」皇帝(溥儀)来訪(日本、1935年) 「比叡」と遼陽の白塔、赤坂離宮   「満州国」皇帝(溥儀)来訪(日本、1935年) 「比叡」と遼陽の白塔、赤坂離宮 
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 その他占領地

 南方占領地

□南方占領地切手とは、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に、日本が占領した東南アジア諸国(香港、ビルマ、アンダマン・ニコバル諸島、マライ、北ボルネオ、オランダ領東インド(現インドネシア)、フィリピン)において使用した切手に対する総称です。

■ビルマ(現在のミャンマー、漢字表記では「緬甸」)は、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接する国である。1941年12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始された。太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍はビルマ独立義勇軍の協力のもとイギリス軍を急襲し、首都ラングーンを早期に陥落させた。ビルマ中北部では連合軍に蒋介石が送った遠征軍も加わり、激戦となったが、日本軍はビルマ全域を制圧した。

ビルマ(Buruma、1943年)
牛による耕作

ビルマ(Buruma、1943年)

ビルマ・風物図案・塔(1943年)

ビルマ・シャン地方切手
加刷 (1943年、婦人)

ビルマ シャン地方の女性

■1943年2月15日に国家紋章の切手が全面現地ビルマ文字表記で発行された。また日本軍主導によるバー・モウを国家元首とするビルマ国が1943年8月1日に樹立され、同じくビルマ文字表記の記念切手が6種発行された。ただし、1943年10月1日に発行された普通切手ではビルマ文字と日本語の表記(「ビルマ」とカタカナで書かれていた)がされていた。また日本軍によってビルマからシャン地方が分離され独自の切手が発行されたが、この切手のは「大日本帝国郵便/シャン」と日本語で表記されていた。

風物図案・ゾウ
(ビルマ、1943年)

ビルマ シャン地方の女性

マライ・ゴム採取とスズ採取船

マライ・ゴム採取とスズ採取船

1943年発行

風景図案・女性
(ビルマ、1943年)

マライ(地図と農耕、1944年)

マラヤ(アジア、日本)

マラヤ、占領地

風景図案・女性(ビルマ、1943年) 大日本郵政の加刷 マラヤ

大日本郵政の加刷

マラヤ(アジア、日本)

マライ(1943年)南方の果実

ジャワ(1945年、操り人形)

■マラヤ・シンガポールと日本:1941年12月太平洋戦争が勃発すると、日本軍は直ちにイギリス領マラヤに侵入した。イギリス領マラヤのゴム、スズ、石油は日本軍が最も必要としていたものであった。日本軍は1942年1月までにマラヤ全土を、2月にシンガポールを占領した。
■シンガポールなどの海峡植民地やマレーの各州ではマライ、ボルネオ島では、北ボルネオの名義で発行された。いずれも日本語表記による切手であった。普通切手のモチーフの中には「昭南」と改称したシンガポールにあった「昭南神社」や「昭南忠霊塔」など、日本による皇民化政策の一環で設置された施設も描かれた。(wikipedia)

海峡植民地(アジア、日本)

海峡植民地4種(アジア、日本)

海軍民政府(アジア、日本)

海軍民政府

■海峡植民地(Straits Settlements, 1826年〜1946年)とは、19世紀から20世紀前半にかけてのマレー半島におけるイギリス植民地の名称。1826年に、ペナン、マラッカ、シンガポールよりなる植民地として形成された。1886年からココス島とクリスマス島が、1906年にラブアン島が編入された。
■海軍民政府とは、オランダ領東インドでは、当時は軍政の担当が異なっていたため、セレベス、モルッカ、西ニューギニアなどの西部地域(海軍担当地区)をとりたてて海軍民政府切手と呼んでいます。

フィリピン(富士とマヨン山、1943年)、「比島郵便」(センタボ)

田植え、「比島郵便」

フィリピン(富士とマヨン山、
1943年)、「比島郵便」

フィリピン(ビンタ船)

フィリピン・バターン・コレヒドール陥落1周年記念(1943年)

フィリピン・英雄切手(1944年)

バルガス マビニ
フィリピン・英雄切手(1944年) 占領地 バルガス マビニ

田植え・水害救済、「比島郵便」
(フィリピン、1943年)

水害救済・慈善加刷切手
(フィリピン、1943年)

フィリピン

フィリピン加刷切手

田植え・水害(フィリピン、1943年) 水害救済(フィリピン、1943年) フィリピン加刷切手

■フィリピンの切手は当初は、アメリカ自治領時代に発行された切手に、英語表記を塗りつぶした上で日本語のカタカナで加刷した。そのため、切手上からは宗主国がアメリカから日本に変わったとアピールする意図が伺える。ただし、このような処置がとられたのはフィリピンに限らず、各占領地に共通している。1943年に発行された正刷による普通切手は、「比島郵便」と日本語表記であった。また1943年5月7日に発行されたバータン・コレヒドールの陥落1周年記念切手では「バタアン・コレヒドール カンラク 一シューネン キネン ショーワ 18ネン 5ガツ」と日本語のカタカナで書かれていた。しかし、それ以前の1942年11月12日に発行された、食糧増産運動慈善切手では、タガログ語表記が採用されている。その後、フィリピンの懐柔策として日本軍主導によるホセ・ラウレル首班のフィリピン第二共和国政府が樹立されると、切手の表記はタガログ語に完全に切り替わる。(wikipedia)

「大東亜戦争」1周年凸版加刷
占領フィリピン(1942年)

 「大東亜戦争」1周年凸版加刷 占領フィリピン

フィリピン独立記念・女性(1943年)のFDC

フィリピン・実逓カバー 憲兵隊の検閲印が生々しい 

フィリピン独立記念・女性(1943年)のFDC 日本南方占領地 フィリピン・実逓カバー 憲兵隊の検閲印が生々しい

フィリピン独立記念・無目打ち3種(1943年)

フィリピン・独立1周年・ラウレル大統領・無目打ち3種(1945年)

フィリピン独立記念・無目打ち3種 フィリピンの女性(1943年) 大東亜戦争

フィリピンの女性

フィリピン・独立1周年・ラウレル大統領・無目打ち3種(1945年)

北ボルネオ切手に「大日本帝国郵便」を加刷 オウム、天狗猿(テングサル)、オラウータン、船の紋章

「北ボルネオ」加刷

■ボルネオ島 (インドネシア語:Pulau Borneo) は、東南アジアにあり、グリーンランド島、ニューギニア島に次いで世界で3番目(4番目といわれる場合もある)に面積の広い島(面積 725,500 平方km、日本の約1.9倍)。南シナ海(西と北西)・スールー海(北東)・セレベス海とマカッサル海峡(東)・ジャワ海とカリマタ海峡(南)に囲まれている。世界で最も多くの国の領地がある島である。英語ではボルネオ(Borneo)、インドネシア語ではカリマンタン(Kalimantan)の呼称を使うのが一般的。。鉱物資源が豊富で、石油、石炭、ダイヤモンド、金、銅、スズ・鉄、マンガン、アンチモン、ボーキサイトなどが産出する。 気候は熱帯気候であり、降雨量は年平均4000mmで乾季はない。熱帯雨林が発達しており、北部にはスマトラサイ、ゾウが生息し、その他、オラウータン、テナガザルなどの中大型哺乳類や、ワニ、ニシキヘビなどの爬虫類が生息している。また、ウツボカズラの種類が多く、特にキナバル山には特産種が多く知られる。

「北ボルネオ」加刷


「北ボルネオ」地図

■韓国では第2次大戦直後の米国政権下では、1946年に日本切手にハングル文字を加刷した暫定切手が発行されています。下のその一例です。その後に開放を祝う正刷切手が発行されました。
■台湾では第2次大戦下で、3,5,10銭の3種の切手が発行されました。ごく短期間使用され、中国返還後は国名が印刷され使用されました。

韓国・日本普通切手に加刷(アジア、日本)

台湾(アジア、日本) 数字

 中国占領地

■上海租界(シャンハイそかい)は1842年の南京条約により開港した上海に設定された租界。当初、イギリス、アメリカ合衆国、フランスがそれぞれ租界を設定し、後に国際共同租界(International settlement)とフランス租界(French Concession)に分かれた。

■中国占領地切手(華北、蒙疆、華中、華南)

上海租界地図(華北加刷)

華北・孫文加刷

華北・孫文加刷

上海租界地図(華北加刷) 中国 占領地 切手 中国占領地 華北・孫文加刷

■ここで言う遷都とは、1940年(昭和15年)3月30日 汪兆銘、南京で親日政府樹立(中華民国南京国民政府)の意味です。
■蒙疆(内蒙古)は、1937年から1945年に渡り日本軍が占領していた地域。

蒙疆(もうきょう)・奔馬図と雲王像(1944年)         大東亜戦争2周年(満州、1943年)

蒙彊(もうきょう)・奔馬図と雲王像・1944年 中国占領地 大東亜戦争2周年 中国占領地

蒙疆加刷(1941年)

河北(華北)加刷

華中・遷都4周年・綿花と稲(1944年) 加刷(1945年)  南京 

華北 日本占領地 華中・遷都4周年・綿花と稲(1944年) 加刷(1945年) 中国占領地 南京 華中・遷都4周年・綿花と稲(1944年) 加刷(1945年) 中国占領地 南京

中華民国 工場と農村と汽車

華中・南京紫禁山(1944年)

華中・改値加刷・遷都4周年(1945年) 南京紫禁山

1941年
中華民国 工場と農村と汽車
華中・改値加刷・遷都4周年(1945年) 南京紫禁山

孫文切手に山東加刷(3分)

孫文切手に山東加刷

孫文切手に山東加刷

孫文切手に山東加刷 孫文切手に山東加刷

孫文切手に山東加刷(5角)

孫文切手に山東加刷(1円)

孫文切手に山東加刷(5円)

■孫文(そんぶん)は、清末民初の政治家、革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。 号は中山、字は載之。中国では前者で、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senで知られる。中国の初期の切手では孫文の肖像が多い。

孫文切手に山東加刷 日本軍占領地

■旧中国の切手は、別ページ「旧中国関係」で詳細を掲載中。1905年(明治38年)孫文が東京で宮崎滔天ら日本人の協力を得て清国打倒の革命運動団体「中国革命同盟会」を結成する。(辛亥革命)

■日中戦争(1937年-1945年)とは、 1937年には、盧溝橋事件や通州事件、第二次上海事変などをきっかけとして、日本軍が中国本土に進出し、中華民国と全面戦争に入った(日中戦争)。これに対し、蒋介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、西安事件により、二つの党が協力して日本と戦うことになった。結局、中国大陸戦線では終始日本側が優勢であったものの、1945年8月ポツダム宣言の受諾とともに日本が降伏することで終結した。戦勝国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなくヨーロッパ諸国も租界を返還するなど、中国の半植民地化は一応の終わりを見せた。

在外国局切手

■朝鮮と中国の主権を侵して、それぞれ1876年(明治9年)に日本は郵便局を開設した。為替差が生じる事もあり、その土地の日本局でしか使えないように加刷を行った。
■日本国内で使用されないように「支那」の文字が加刷されているが、このような切手は1900年から販売され1922年に廃止された。19世紀末まで、中国大陸は清朝(満洲族)の統治下にあり、明治の日本はこの国を清国と称し、その国民を清国人と呼んだ。中国人共和主義者たちの間で、清国、清国人という呼称は「満清の臣下」を意味するという理解から、清にかわる、いまだ存在しない自分たちの共和国の呼称についての模索が開始され、また中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。また清の末期(19世紀末 - 1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷を超えた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

『支那』加刷(1900-07年)

菊切手に『支那』加刷

菊切手に『支那』加刷

菊切手に『支那』加刷

菊切手に『支那』加刷

■朝鮮加刷切手とは1900年のに菊切手に朝鮮と加刷され発行された。1900年に使用された目打機械は単線目打機械のみであり、櫛型目打機械の導入は1902年です。

『朝鮮』加刷(1900-10年)

菊切手『朝鮮』に加刷

菊切手『朝鮮』に加刷

菊切手『朝鮮』に加刷

菊切手『朝鮮』に加刷

菊切手『朝鮮』に加刷

菊切手『朝鮮』に加刷

満州・中国や南方占領時代に発行された切手

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