京都府写真集| 酬恩庵一休寺(しゅうおんあんいっきゅうじ) 一休さんの想い出写真 |
はじめに
このページでは仕事の関係で京都市内(烏丸三条他)に10年間生活し、気が付けば何の写真も残っていないので、改めて撮り直した。 2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2016年以前のものです。
■京田辺市(きょうたなべし)は、京都府の南部に位置する市。山城地域。 大阪府・奈良県との府県境近くにある。 京田辺市は京都府南部、八幡市・城陽市・綴喜郡井手町・相楽郡精華町・大阪府枚方市・奈良県生駒市と接し、三府県の三角地帯の中央部に位置、南山城地域の行政・経済・文化の中心部として発展した。 平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、6.09%増の67,904人であり、増減率は府下26市町村、36行政区域中ともに2位。 同志社大学、同志社女子大学があるため20代前後の人口が多い。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
酬恩庵一休寺(しゅうおんあんいっきゅうじ)
■酬恩庵(しゅうおんあん)は京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院である。山号は霊瑞山。本尊は釈迦如来。 一休寺(いっきゅうじ)、薪(たきぎ)の一休寺とも称される。 枯山水の石庭や一休宗純の木像のほか、納豆の一種である「一休寺納豆」でも有名。
鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。 然るにその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455〜6年)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。
★一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394-1481)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られています。出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている。 『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという。 文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去、享年88。
方丈中央の内陣を昭堂と称しここに一休禅師の木像を安置してあります。
■方丈東庭は大小の石が立ちまた横になる様を十六羅漢になぞらえたとされる。
■とんち話 びょうぶのトラ
一休さんのとんちの評判を聞いて、殿さまがお城に一休さんを招き入れました。「さっそくじゃが、そこにあるびょうぶのトラをしばりあげてくれぬか。 夜中にびょうぶから抜け出して悪い事ばかりするので、ほとほと困っておったのじゃ」 もちろん、ひょうぶに描かれた絵のトラが出てくるなんて、うそに決まっています。 しかし有名な絵描きが描いたのでしょうか、びょうぶに描かれたトラはキバをむいて、今にも襲いかかってきそうでした。「本当に、すごいトラですね。 それでは、しばりあげてごらんにいれます。 なわを、用意してください」 「おおっ、やってくれるか」 「はい。もちろんですとも」
一休さんはそう言うと、ねじりはちまきをして腕まくりをしました。 そして家来が持ってきたなわを受け取ると、一休さんは殿さまに頼みました。 「それでは、トラをびょうぶから追い出してください。 すぐに、しばってごらんにいれます」 それを聞いた殿さまは、思わず言いました。
「何を言うか! びょうぶに描かれたトラを、追い出せるわけがなかろうが」 すると一休さんは、にっこり笑って言いました。 「それでは、びょうぶからはトラは出て来ないのですね。 それを聞いて、安心しました。 いくらわたしでも、出てこないトラをしばる事は出来ませんからね」
それを聞いて、殿さまは思わず手を叩きました。
注)Wikipediaと酬恩庵 一休寺のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
京都府写真集|一休さんのお寺・酬恩庵一休寺 |