京都市写真集|中京区 鴨川沿って三条から四条へ 先斗町、祇園 |
鴨川
■鴨川(賀茂川)は、北区雲ヶ畑・桟敷岳を源とし南下、上京区出町付近で高野川と合流後、市街地東部を南へ貫通し伏見区下鳥羽で桂川と合流し淀川に入る。全長23キロ。814年(弘仁5)「日本紀略」に書かれたのが古く、文学や歴史にしばしば登場する。加茂川とも。現在、高野川合流点(出町)以北を賀茂川、以南を鴨川と使い分けられるが、現河川法では全長を鴨川と総称する。 古代の鴨川上流域は賀茂氏の本拠地であった。上賀茂神社、下鴨神社はその氏神を祀る。下流域には山背国に配置された秦氏が定住していた。
■京友禅 かつては京友禅を鴨川の流れにさらす「友禅流し」が行なわれていたが、水質悪化などが問題となり1970年代に中止された。
■三条大橋と四条大橋の間の川岸は先斗町や繁華街から近いこともあり、週末の昼下がりから夜にかけては多くの人がたたずむ。しかしどれだけ人が増えてもカップルやグループの間隔が等間隔であるといわれる事から、この現象は「鴨川等間隔の法則」と呼ばれる事がある。
このページでは仕事の関係で京都市内(烏丸三条他)に10年間生活し、気が付けば何の写真も残っていないので、改めて撮り直した。 2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2016年のものです。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
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三条大橋周辺
■三条大橋は、京都市にある三条通の橋。一級河川の鴨川に架かっている。最初に橋が架けられた時期は室町時代といわれている。その後、天正17年(1589年)には、豊臣秀吉の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。
江戸時代には五街道のひとつ東海道五十三次の西の起点となる。そのため幕府直轄の公儀橋に位置付けられた。
今も烏丸御池付近には「御池之町」「龍池町」「二条殿町」の地名が残る。池も含めて二条殿の地は『京雀』が言う「鴨居殿」の故地ではなく、その東隣の二条関白家の邸跡であり、織田信長の「二条新御所(二条城)」の故地でもある。
烏丸通りと姉小路の交差点 |
NHK京都放送局 |
平安京左京四条三坊跡 |
瀟洒なランプ |
三条西殿・三条大路跡 |
■烏丸御池駅(からすまおいけえき)は、京都府京都市中京区にある、京都市営地下鉄の駅。地下鉄の烏丸線と東西線が十文字に交わる結節点に位置する駅で、両路線の乗換駅である。昔住んでいた場所。祇園祭の時は家のすぐ前を鉾が通過する。 |
■平安京左京四条三坊跡: 遺跡は中京区錦小路通烏丸東入元法然寺町にある。 これまでに、北西から南東へ延び、約120度曲がってほぼ東に延びる「く」の字形の堀が発見された。堀の幅は約4メートル、深さは1・4〜1・7メートル。洛中では、碁盤の目から斜め方向にずれた堀が見つかるのはまれだ。堀は安土桃山時代、豊臣秀吉が周辺を整備する際に埋められた可能性が高く、秀吉の都市改造を知るうえで重要な遺構だという。
■三条西殿・三条大路跡:南を三条通り(三条大路)、北を姉小路通り(姉小路)、東を烏丸通り(烏丸小路)、西を室町通り(室町小路)に囲まれた一画は、平安時代の表示では「左京三条三坊十二町」に当たる。 この付近は、平安時代後期には皇族や有力貴族の所有になる高級邸宅街であった。 特に十二町は白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院の御所として、院政時代の政治の中心となった「三条西殿」の遺跡として知られている。この三条西殿の東南部分にあたる「烏丸ビル」の敷地は、財団法人古代学協会・平安博物館が昭和44年と56年に二度にわたり発掘調査を実施した。
木屋町通 先斗町
■木屋町通、木屋町通り(きやまちどおり)は、京都市の南北の通りの一つ。北は二条通から南は七条通まで、全長約2.8キロメートルの道路である。先斗町の西にあり、高瀬川の東側に沿って中京区・下京区を貫通する。
■高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。
■先斗町(ぽんとちょう)は京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街及び歓楽街。「町」と付くが地名としての先斗町はない。
■納涼床、川床(かわどこ)ともいう。二条大橋から五条大橋にかけての鴨川西岸の料理店では、5月から9月にかけて河原に張り出した木組みの床が設けられる。北エリア(二条通から先斗町公園の上木屋町、先斗町北)と南エリア(先斗町公園から五条通の先斗町南、西石垣、下木屋町)に位置し、観光客を魅了している。
四条大橋周辺
■四条大橋は、京都市を流れる鴨川に架かる四条通の橋。四条通の東の先は祇園、八坂神社、鴨川西岸には先斗町、四条河原町がある。京都を代表する繁華街を結ぶ橋であることから、人通りが多い。八坂神社「社家記録」によれば、四条大橋は1142年(永治2年)、勧進により架けられたという。平安時代末期は行政の機能が低下し、朝廷が造橋所を設けて賦課により架設することが少なくなっていたためである。以後、この橋は度々流失して架け直された。発見されている最古の記録は1228年(安貞2年)で、このとき五条大橋も流されている。
■祇園(ぎおん)は京都市東山区にある、京都の代表的な繁華街及び歓楽街。現在の八坂神社は明治以前は祇園社(ぎおんしゃ)と称し、鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称する。
★花見小路通(はなみこうじどおり)は、京都市の南北の通りの一つ。北は三条通から南は安井北門通まで約1km、祇園の中心を通るメインストリートである。
四条通を境に北側と南側で雰囲気は大きく異なる。四条通以北は、バー、クラブ、飲食店、居酒屋などが入居するテナントビルが立ち並ぶ。 四条通以南はもともと建仁寺の領地であったものが明治以降発展した。
★祇園に関連する話:牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。 釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。 蘇民将来説話(「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。)の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。
★旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。 後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。 武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
注)Wikipediaと瑞泉寺や祇園一力亭のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
京都市府写真集|鴨川沿い 三条から四条へ 先斗町、祇園 |