京都市写真集|下京区 西本願寺、東本願寺、東山区 大谷本廟 |
はじめに
このページでは仕事の関係で京都市内(烏丸三条他)に10年間生活し、気が付けば何の写真も残っていないので、改めて撮り直した。 2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2016年以前のものです。
■本願寺(ほんがんじ)は、寺院の名称で、各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。 浄土真宗における寺号の由来は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)であるとされる。
西本願寺は、京都市下京区堀川通り花屋町下る本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山。 正式名称は「本願寺」。
東本願寺 は、京都市下京区烏丸通り七条上る常葉町にある真宗大谷派の本山。 正式名称は「真宗本廟」。(1987年〈昭和62年〉までは「本願寺」が正式名称。)
本廟を祖廟と呼んでいる。
■親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。
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西本願寺
■世界遺産・西本願寺の御影堂(ごえいどう)前の大銀杏:天然記念物 大銀杏となっています。 まるで根っこを天に広げたような形から「逆さ銀杏」とも呼ばれる樹齢約400年の大銀杏は、京都市の天然記念物に指定されています。本願寺に火災があった時、この銀杏から水が噴き出して消し止めたという伝説から、「水吹き銀杏」とも呼ばれています。
■興正寺(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗・真宗興正派の本山。山号は円頓山(えんとんざん)。西本願寺の南隣に位置する。かつて西本願寺の脇門跡であったが、1876年(明治9年)に真宗興正派として独立した際に同派の本山となる。承元元年(1205年)専修念仏は禁止され、浄土真宗の宗祖である親鸞は越後国に配流されたが、建暦元年(1211年)に赦免された。寺伝によると、親鸞は赦免された翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建した。そして、親鸞はこの寺を弟子の真仏上人(第2世)にまかせると、阿弥陀仏の本願を広めるために関東行化に旅立ったとされている。その後、順徳天皇から聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、これにより寺号を「興正寺」とし、真宗念仏宣布の根本法城としたという。
★西本願寺 新選組ゆかりの太鼓楼(重文):新選組は、「池田屋騒動」元治元<一八六四〉年)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元(<一八六五〉年)三月十日、屯所を壬生から本願寺に移し、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北東にあった北集会所と太鼓楼を使用Lておりました。 本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士たちが、何かにっけて本願寺を頼りにしていたため、新選組は本願寺のなかに本拠を移すことによって一石二烏の効果をねらったものでありました。 新選組は、境内で大砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、乱暴を繰り返したため参拝の門信徒や僧侶らを震撼させる毎日てあったそうです。
新選組ゆかりの太鼓楼(重文)の説明 英文含む |
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幕末の新選組ゆかりの太鼓楼(重文) |
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★新選組は、幕府に京都守護職を命じられた会津藩主松平容保の配下で活動した組織。 1867年(慶応3年)には幕臣に取り立てられ、戊辰戦争では旧幕府軍に従って戦った。 新選組は、壬生浪士組として発足し、その頃の隊員数は24名だったが、1864年(元治元年)の池田屋騒動以降、隊員数が増加し最盛時には200名を超えていたという。 1865年(慶応元年)、壬生の屯所が手狭となった新選組は、本願寺に移り、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北集会所と太鼓楼を使用していた。 本願寺に屯所を構えた新選組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃を行うなど、僧侶や信徒を震撼させる毎日で、食料としての豚の飼育も行っていたという。
新撰組は主に北集会所と太鼓楼を使用したとの事ですが、北集会所は末寺である兵庫県・姫路市の本徳寺へ移築されています。
怪力として知られ、二番組伍長であった島田魁は、函館まで戊辰戦争を戦い抜き降伏。謹慎の後、明治33年亡くなるまで西本願寺の守衛を務めたということです。
現在、本願寺境内の北東隅に建つ太鼓楼は、旧来より時を報せたり、法要の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築。
東本願寺
■東本願寺(真宗本廟)の敷地には、御影堂(ごえいどう)、阿弥陀堂をはじめ、数々の歴史的建築物が点在しています。御影堂は、境内のほぼ中心に位置する和様の道場形式の堂宇である。屋根は瓦葺きの重層入母屋造。外観が二重屋根であるため二層建築に見えるが、下部は裳階であり単層建築である。建築規模は、間口76m・奥行き58mであり、建築面積において世界最大の木造建築物です。以前、中国北京でラストエンペラーの紫禁城を見ましたが、それに勝るものと思い感動しました。
御影堂門は、高さ約28mの入母屋造・本瓦葺き・三門形式の二重門。「真宗本廟」の扁額を掲げる。京都三大門の1つである。明治44年(1911年)の再建。
■ゆるキャラとは、「ゆるいマスコットキャラクター」を略したもので、イベント、各種キャンペーン、村おこし、名産品の紹介などのような地域全般の情報PR、企業・団体のコーポレートアイデンティティなどに使用するマスコットキャラクターのこと。
大谷本廟(大谷祖廟)
■大谷本廟(西本願寺)は宗祖親鸞聖人のご廟所(墓所)であり祖廟(東本願寺)とも呼ばれています。 親鸞聖人は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の尋有僧都(じんうそうづ)の住坊「善法坊」(現在の角坊別院)において90歳で ご往生になり、鳥辺山南辺(現在の本廟の「御荼毘所」)で火葬、ご遺骨は鳥辺野(とりべの)北辺の「大谷」 に納められました。 その後、聖人の末娘である覚信尼(かくしんに)さまが諸国の門弟の協力を得て、ご遺骨を吉水の北辺(現在の知恩院山門北側の「崇泰院(そうたいいん)」付近)に改葬し、お堂を建てご影像を安置されました。 このご廟は「大谷影堂」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺」となり、第八代蓮如宗主時代の「寛正の法難」(1465年)まで、およそ二百年間、諸国の門弟や同行によって護持されてきました。 以後、第十二代准如宗主時代の1603(慶長八)年、徳川幕府の政策によって五条坂の現在地に移転し、この地を「大谷」と呼ぶようになりました。 以来、永い年月を経た現在も「大谷本廟」は、宗祖親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、お念仏のよろこびに生かされる門信徒の方々によって立派に護持されております。 東山五条(東山通りと五条バイパスの交差する場所)。
■大賀 一郎(おおが いちろう、1883年〈明治16年〉4月28日 - 1965年〈昭和40年〉6月15日)は日本の植物学者。 1917年(大正6年)に満州の大連へ赴き、南満州鉄道中央研究所(満鉄調査部)植物班主任として古ハスの実の研究に従事する。1927年「南滿州普蘭店附近の泥炭地に埋没し今尚生存せる古蓮實に関する研究」で東大理学博士。 1951年(昭和26年)、千葉県千葉市の東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)内の落合遺跡で、今から2,000年以上前の古代のハスの実を発見した。同年5月に古代ハスの実が発芽、翌年開花し、このハスは大賀ハスと名付けられた。
注)Wikipediaと東西本願寺のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
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