日本切手 東海道五十三次 池鯉鮒から土山まで の切手
馬市で有名な知立(平安時代の『和名抄』に「智立」郷がみえます)を出立し、もうじきに鈴鹿の関です。江戸の浮世絵師・安藤広重(歌川広重)が描いた日本切手・東海道五十三次(国際文通週間、浮世絵)です。参河(みかわ、現在の愛知県の東部にあたる)の国の池鯉鮒から尾張国(名古屋)や伊勢国(三重県)を経由して近江の国(滋賀県)・土山まで。海を渡り鈴鹿峠越えの道のりです。もう直ぐに京の都です。この鈴鹿峠は三重県(旧伊勢国)亀山市(旧関町)と滋賀県(旧近江国)甲賀市(旧土山町)の境に位置する東海道(国道1号)の峠。標高は357m。飛鳥時代に古代東海道上に鈴鹿関が置かれ、以後これより東を東国〜関東と呼んだ。かつては峠を挟んで、滋賀県側には土山宿、三重県側には坂下宿が所在し、東海道の旅人たちの憩いの場となっていた。浮世絵関連では印象派・ゴッホ|プラハ美術館収蔵もあります。
参河国・三河国(池鯉鮒(知立))、尾張国(鳴海、宮)、伊勢国(桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、坂下)、近江国(土山)
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の道順 索引 |
江戸〜京間里程124里8丁。 |
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東海道五十三次の切手と浮世絵(池鯉鮒から土山まで) |
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参河国(三河国) |
今の愛知県 |
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池鯉鮒(首夏馬市) |
■39. 池鯉鮒(ちりゅう)宿(愛知県知立市) - 3里30丁 |
東海道五拾三次之内 |
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尾張国 |
今の愛知県 |
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鳴海(名物有松紋) |
■40. 鳴海宿(愛知県名古屋市緑区) - 2里30丁 ■大高城祉 :桶狭間の合戦の前哨戦において、松平元康が兵糧入れをした城。江戸時代には廃城となっていたが、尾張藩は東の押さえとして重視し、万石級の家老を領主として置いた。鳴海寺詣り歌。 |
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宮(熱田神事) |
■41. 宮宿(愛知県名古屋市熱田区) - 1里半 |
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伊勢国 |
今の三重県 |
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桑名(七里渡口) |
■42. 桑名宿(三重県桑名市) - 3里(川舟) |
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四日市(三重川、三滝川) |
三滝川 |
■江戸以前から海陸交通の要で人が集まり、毎月4日に開かれる市が定期的に行われ、四日市の名がついたといわれる。また、伊勢参宮道への追分をひかえていたため宮から船で渡る「十里の渡し」という船便もあり、江戸期においても宿場として賑わった。三重県四日市市。 |
■四日市宿は幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていた。宮宿との間に「十里の渡し」があった。宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、脇本陣1、旅籠98)。三滝川(歌川広重『東海道五十三次・四日市』の場所)。 |
■43. 四日市宿(三重県四日市市) - 3里8丁 |
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石薬師(石薬師寺) |
■宿場内の石薬師寺にちなんで宿場名としたように静かな小さな宿場であった。広重の描く石薬師寺裏手に三重にかさなる遠山、暗い杉木立、夕暮れのわびしさは静かな詩情がただよう。佐佐木信綱は1872年(明治5年)、石薬師宿に生まれた歌人・歌学者。唱歌「夏は来ぬ」の作詞者が有名。 |
庄野(白雨) |
■庄野宿は東海道45番目の宿場で、成立した時期も一番遅く。また石薬師宿から一里に満たない距離で、石薬師と同じように伊勢詣の旅人は東は日永の追分、西は関から別ルートをとってしまうので人通りは少なかった。広重の名作、庄野の白雨(にわかあめ)に描かれている竹薮はこの地で随所に見られる。 |
■44. 石薬師宿(三重県鈴鹿市) - 2里27丁 |
■45. 庄野宿(三重県鈴鹿市) - 27丁 |
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亀山(雪晴) |
亀山(雪晴) |
■慶長6年(1601)に置かれた東海道亀山宿は、露心庵(栄町)から京口門(市ケ坂町)まで延長約3kmにおよぶ宿場町で、東町と西町に分けられていました。 亀山宿は城下に隣接しているため、宿内の道は見通しのきかない曲線を描いたり、突然直角に折れ曲がったり。随所に寺社が配置されていたりするのも特徴です。旅籠の数などは隣の関などと比べて少ないのですが、城下の分もあわせると実質的な町はひとまわり大きいものでした。西町などは現在も連子格子の町屋が建ち並び、往時の面影を偲ぶことができます。ローソクでも有名です。今はSHARPの工場などが乱立しハイテクの町になりつつあります。 |
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■46. 亀山宿(三重県亀山市) - 2里 |
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関(本陣早立) |
■関宿は古代から交通の要衝で壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿の関」が置かれていた場所である。関の名も鈴鹿の関に由来する。西追分の大和街道や東追分の伊勢別街道が東海道と分岐し、これらの街道を参勤交代や伊勢参りなどで利用する人々で賑わっていた。現在でも、宿場町の景観が1.8kに渡り残されている。 |
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■47. 関宿(三重県亀山市(旧・鈴鹿郡関町)) - 1里半 |
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■関に関係ある人物としては一休禅師であり、 地蔵院の本尊の開眼供養にユニークな伝説が残る。また、「関の山」の語源は、 関宿の夏祭りに出る山(関東で言う山車)が立派であったことから、「これ以上のものはない」という意味で使われるようになったそうです。 |
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阪之下(筆拾嶺) |
■48. 坂下宿(三重県亀山市(旧・鈴鹿郡関町)) - 1里24丁 |
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近江国 |
今の滋賀県 |
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土山(春之雨) |
土山(春之雨) |
グレナダ・グレナディーンの土山 |
■49. 土山宿(滋賀県甲賀市(旧・甲賀郡土山町)) - 2里半 |
■土山宿(つちやまじゅく)は西に向かう旅人が鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場で馬子唄にも「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と謡われているように雨が多い所である。東海道土山宿には公卿や諸大名が泊まる本陣、脇本陣をはじめ旅籠が軒をつらね、本陣は徳川三代将軍家光が上洛の際に設けたといわれています。 |
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■浮世絵師・安藤(歌川)広重(廣重)が描いた日本切手・東海道五十三次(国際文通週間)です。ご自身の旅行した時の事を思い出してください。 この頃の武蔵国の人口は1834年(天保5年) - 171万4054人。 葛飾北斎は、天保2年に「冨嶽三十六景」を刊行し、その影響もあったのか、広重は天保の大飢饉の最中の天保3年(鼠小僧次郎吉が獄門になった年)夏、幕府が朝廷に御馬を献上する八朔御馬献上儀の旅に、加わりこの模様を写生したそうです。このスケッチをもとに「東海道五十三次続絵」を保永堂より出版しました。「日本橋」から「三条大橋」までの宿場を舞台に、旅に関わる風物、人物を自然の景観のなかに抒情ゆたかに描き、雪や雨など、自然現象がかもしだす風情をたくみにあらわしています。広重の個性がよく発揮されたこの連作は、旅行ブームを背景に庶民の間で大いに人気を博しました。 |
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The 53 Stations of the Tookaidoo (東海道五十三次, Tookaidoo Gojuusan-tsugi) are the rest areas along the Tookaidoo, which was a coastal route that ran from Nihonbashi in Edo (modern-day Tokyo) to Sanjoo oohashi in Kyoto. |
日本切手 東海道五十三次 池鯉鮒から土山まで の切手 |
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