日本切手 東海道五十三次 沼津から掛川まで の切手
月の明かりに照らされた沼津から始まる江戸の浮世絵師・安藤広重(歌川広重)が描いた日本切手・東海道五十三次(国際文通週間、浮世絵)です。駿河の国・沼津から遠江の国・掛川まで。富士山を眺めながらの東海道です。江戸時代の駿河国は、直轄地である駿府の西の守りとして田中藩が、東の守りとして小島藩が置かれた。この他にも、東海道の宿場町が多く誕生した。中でも、大井川は架橋や渡船が禁止されたため、旅人は川越によって渡川するほかなく、両岸に位置する島田宿と金谷宿は、川越で盛えた。
駿河国(沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子、岡部、藤枝、島田)、遠江国(金谷、日坂、掛川)
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の道順 索引 |
江戸〜京間里程124里8丁。 |
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広重の東海道五十三次の切手と浮世絵(沼津から掛川まで) |
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駿河国 |
今の静岡県 |
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沼津(黄昏図) |
■三枚橋城廃城後の慶長19年(1614)から、安永6年(1777)に水野忠友によって再び沼津城が築かれるまでの160年間、沼津は専ら交通上の機能を持つ宿駅として発展していった。月に照らされ狩野川沿いに足を運ぶ旅人(伊勢神宮に向かう母娘、天狗を背負う金比羅参り)。本陣3、脇本陣1、旅篭屋55、総戸数1234を数えた。 |
原(朝之富士) |
■原宿は宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた。原宿は幕領で、韮山(西伊豆の玄関口で、反射炉で鉄砲を作っていました)の江川代官の支配下にあった。本陣は西町に1軒、脇本陣は東町に1軒あった。旅籠屋も25軒ほどあったが、その後、天保9年(1838)に火災の被害にあっている。また、この場所は慶長年間に起きた高潮の被害により、現在の旧国道1号線(県道富士清水線)付近から移動したといわれています。 |
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■13. 原宿(静岡県沼津市) - 1里半 |
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吉原(左富士) |
■14. 吉原宿(静岡県富士市) - 3里6丁 |
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蒲原(夜之雪) |
■15. 蒲原(かんばら)宿(静岡県静岡市清水区(旧・庵原郡蒲原町)) - 2里30丁 |
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由比(薩た峰) |
■16. 由比宿(静岡県静岡市清水区(旧・庵原郡由比町)) - 1里 |
EF58形電気機関車・特急つばめ |
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静岡県静岡市清水区。 |
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■薩た峰(サッタ峠)は、静岡県静岡市清水区にある峠である。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置する。峠からの富士山と駿河湾の景色は、東海道五十三次にも残されるほどの絶景であり、高速道路(東名)の宣伝材料など、さまざまな素材にも利用されている。 |
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興津(興津川) |
興津宿(興津川の渡し) |
■17. 興津(おきつ)宿(静岡県静岡市清水区(旧・清水市)) - 2里12丁 |
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江尻(三保遠望) |
■18. 江尻宿(静岡県静岡市清水区(旧・清水市)) - 1里3丁 |
興津(興津川) |
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府中(安倍川) |
■19. 府中宿(駿府)(静岡県静岡市葵区) - 2里29丁 |
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鞠子(名物茶店) |
鞠子(名物茶店) |
■20. 鞠子(まりこ)宿(静岡県静岡市駿河区) - 1里半 |
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岡部(宇津之山、宇津ノ谷峠) |
岡部(宇津之山、宇津ノ谷峠) |
■21. 岡部宿(静岡県藤枝市(旧・志太郡岡部町)) - 1里29丁 |
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■宇津ノ谷峠(うつのやとうげ)は、中世から交通の要衝として和歌にも詠われ、現在でも国道1号のトンネルが通過している。また、平安時代の道(蔦の細道)から国道1号現道のトンネルまで、全て通行可能な状態で保存されており、道の変遷を知ることができる。近世東海道の交通を知る貴重なものとして2010年に国の史跡に指定された。 |
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藤枝(人馬継立) |
■22. 藤枝宿(静岡県藤枝市) - 1里29丁 |
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この昔の街道に、なくてはならない機関の有様を描いたのが、この絵で、問屋場の役人、汗をふいたり、煙草をふかして一休みする雲助たち、馬の鞋をとりかえる馬士など、あわただしい問屋場のひと時の情景が面白く描かれている。 |
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嶋田(大井川駿岸) |
■23. 島田宿(静岡県島田市) - 2里8丁 |
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遠江国 |
今の静岡県 |
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金谷(大井川遠岸) |
■24. 金谷宿(静岡県島田市(旧・榛原郡金谷町)) - 1里 |
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日坂(小夜ノ中山) |
■25. 日坂(にっさか)宿(静岡県掛川市) - 1里24丁 |
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掛川(秋葉山遠望) |
■26. 掛川宿(静岡県掛川市) - 1里19丁 |
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■浮世絵師・安藤(歌川)広重(廣重)が描いた日本切手・東海道五十三次(国際文通週間)です。ご自身の旅行した時の事を思い出してください。 この頃の武蔵国の人口は1834年(天保5年) - 171万4054人。 葛飾北斎は、天保2年に「冨嶽三十六景」を刊行し、その影響もあったのか、広重は天保の大飢饉の最中の天保3年(鼠小僧次郎吉が獄門になった年)夏、幕府が朝廷に御馬を献上する八朔御馬献上儀の旅に、加わりこの模様を写生したそうです。このスケッチをもとに「東海道五十三次続絵」を保永堂より出版しました。「日本橋」から「三条大橋」までの宿場を舞台に、旅に関わる風物、人物を自然の景観のなかに抒情ゆたかに描き、雪や雨など、自然現象がかもしだす風情をたくみにあらわしています。広重の個性がよく発揮されたこの連作は、旅行ブームを背景に庶民の間で大いに人気を博しました。 |
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The 53 Stations of the Tookaidoo (東海道五十三次, Tookaidoo Gojuusan-tsugi) are the rest areas along the Tookaidoo, which was a coastal route that ran from Nihonbashi in Edo (modern-day Tokyo) to Sanjoo oohashi in Kyoto. |
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日本切手 東海道五十三次 沼津から掛川まで の切手 |
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