Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
美術切手|浮世絵師・歌川広重が描いた「東海道五十三次」 江戸と京都の中間の遠江の国・袋井から徳川家康の生誕地の参河(みかわ)の国・岡崎まで 遠江国(袋井、見附、浜松、舞坂、新居、白須賀)、参河国(二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎)

ホーム>切手・題材・テーマ別>世界の美術・工芸>日本の絵画/浮世絵師・歌川広重と「東海道五十三次」>袋井から岡崎


日本切手 東海道五十三次 袋井から岡崎まで の切手

 江戸と京都のちょうど中間の袋井宿から始まる、江戸の浮世絵師・安藤広重(歌川広重)が描いた日本切手・東海道五十三次(国際文通週間、浮世絵)です。遠江の国・袋井から徳川家康の生誕地の参河(みかわ)の国・岡崎まで。意外と平坦な道だったようです。当時、遠江はお伊勢参りの通過点で、阿波で始まった1830年(文政13年 / 天保元年) の文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数(参詣者:427万6500人/当時の日本総人口:3228万人(1850年))は大幅に増えている。 何故か参詣するときに、ひしゃくをもっていって伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。 広重もそんな光景を見たのかも知れない。そのおかげで物価は大上昇の時期でもあったようです。
遠江国(袋井、見附、浜松、舞坂、新居、白須賀)、参河国(二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎)

  

 歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の道順 索引

江戸〜京間里程124里8丁。

     トップ   江戸・日本橋〜三島 〜 沼津〜掛川 〜  袋井〜→岡崎 〜 池鯉鮒 〜土山 〜 水口〜京都・三条大橋

 東海道五十三次の切手と浮世絵(袋井から岡崎まで)

遠江国

今の静岡県

袋井(出茶屋ノ図)

■27. 袋井宿(静岡県袋井市) - 2里16丁
■袋井宿は掛川宿と見付宿の間に江戸・京都からどちらも東海道27宿目の、真ん中の宿場として、他の多くの宿より15年ほど遅れて、1616年開設された。袋井は宿場町よりもまわりの遠州三山に歴史的な遺構が多く、法多山尊永寺(厄除け)、万松山可睡斎(火防霊場)、医王山油山寺(眼病治療)とそれぞれのご利益参詣で賑わい、また袋井では江戸時代に花ござを名産物としていた。◎管轄:幕領 ◎人口:843人 ◎家数:195軒 ◎旅籠:50軒・本陣3軒。
■遠州三山:法多山尊永寺、医王山油山寺、萬松山可睡斎 (かすいさい) 

袋井  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

可睡斎 (かすいさい)は、徳川家康が、幼い頃武田信玄の軍から逃れ父と共に匿われた礼に訪れた際、席上で居眠りをする仙麟等膳和尚(第11代)を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言い、以来和尚が「可睡和尚」と呼ばれたことから。 

見付(天竜川図)

■28. 見付宿(静岡県磐田市) - 1里半
■見付宿は現在の磐田市である。サッカーのジュビロ磐田や東海道随一の学問の神様で崇拝される「見付天神」の「裸祭り」で知られている。見付の名は西から来て始めて富士山が見えた場所・見付けた場所からきたと言われている。また天竜川の左岸で賑わい、御油に至る姫街道の起点でもあった。
◎管轄:幕領 ◎人口:3935人 ◎家数:1029軒 ◎旅籠:56軒・本陣2軒

濱松(浜松、冬枯ノ図)

■29. 浜松宿(静岡県浜松市中区) - 4里7丁
■濱松(浜松)は、徳川家康が1570年、引馬城(浜松城)へ入城してからで、この城は家康以後も水野忠邦をはじめ老中などに出世する者を出し出世城と言われた。1601年東海道の宿駅に指定され江戸末期には街道最大規模の宿場だったという。最近では鰻の養殖で有名です。
◎管轄:浜松藩領 ◎人口:5964人 ◎家数:1622軒 ◎旅籠:94軒・本陣6軒

 浜松  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

舞阪(今切真景、浜名湖)

舞阪(今切真景、浜名湖)

■30. 舞坂宿(静岡県浜松市西区舞阪町(旧・浜名郡舞阪町)) - 2里30丁
■江戸から67里の舞阪宿は宿場としては小規模なものだったが、船でしか渡ることのできない浜名湖今切の東側に位置していたため、交通政策上は重要視された宿場でした。弁天島は1499年の大地震で島となった場所で、同時に浜名湖が海と繋がり、当時の人は陸地が今切れたのでこの場所を「今切」と呼んだ。陸地が無くなったため舞阪宿〜新居宿間は湖上一里の船渡しとなる。また、JR舞阪駅から宿場入口にかけては、見事な松並木が残る。 静岡県浜松市西区舞阪町。

舞阪(今切真景、浜名湖)

荒井(新居、渡舟ノ図)

荒井(新居、渡舟ノ図)

■31. 新居宿(静岡県湖西市(旧・浜名郡新居町)) - 1里(海上)
■新居関所があった所です。 江戸時代を通して今切渡船の新居側の渡船場は、常に関所の構内にありました。新居と対岸の舞坂の間は海上1里半の今切の渡しで、渡船120艘、船頭水主360人(新居宿場)によって行われ旅人にはやっかいな、しかし、幕府にとっては自然の要塞でありました。これに目をつけた家康は、江戸を守る目的で、古くから交通の要所であった新居に関所を設置し、「入鉄砲に出女」と言われるように、女性の通行と武器の移動に対して厳しく取り締まり、特に女性に対しては、通行手形がなければ通さなかったことは勿論、男装とおぼしき者は、「改め女」がこれを取り調べました。旅籠紀伊国屋は、新居宿では最大規模を誇った老舗旅館。 

荒井(新居、渡舟ノ図)  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

白須賀(汐見阪図)

■32. 白須賀(しらすか)宿(静岡県湖西市) - 1里24丁
■鎌倉時代から「白い砂州の上に開けた集落」の事を「白須賀」と言うらしい。その名の通り宿場は海辺近くにあったが1707年の大地震で壊滅したため翌年、潮見坂の上に移された。◎管轄:幕領 ◎人口:2704人 ◎家数:613軒 ◎旅籠:27軒・本陣1軒

■白須賀宿は、元々は海岸近くにあったが、宝永4年(1707年)の大地震と津波により大きな被害を受けたため、その後潮見坂の上の高台にある現在地に移された。西の加宿境宿で売られていた柏餅は、白須賀宿の名物として有名だった。白須賀宿(静岡県湖西市)。

白須賀(汐見阪図)
白須賀(汐見阪図) 新居

参河(みかわ)国

今の愛知県

■大岩寺(だいがんじ)は愛知県豊橋市大岩町(おおいわちょう)にある曹洞宗の寺院。山号は亀見山。境外仏堂として、岩屋観音(いわやかんのん)がある。 岩屋観音は、天平2年(730年)に、全国を回る行基が1尺1寸の木造の千手観音を彫り岩穴に祀ったと言う。これが大岩寺の境外仏堂岩屋観音の始まりであり、岩屋観音の1坊であった大岩寺のルーツ。

ニ川(猿ヶ馬場)

■東海道33番目の宿場、二川宿は東海道を江戸から京都へと上って行くと、三河国(愛知県)最初の宿場町だった。宿場規模は小さく、近年には製糸が盛んとなったが、大きな産業もない。人馬継立業務を担当していた。現在では豊橋のような大開発を免れ貴重な本陣や家屋が残されている。近くに有る岩屋観音は有名だ。 

■33. 二川(ふたがわ)宿(愛知県豊橋市) - 2里16丁
◎管轄:幕領 ◎人口:1468人 ◎家数:328軒 ◎旅籠:38軒・本陣1軒

 

二川

吉田(豊川橋)

■34. 吉田宿(愛知県豊橋市) - 1里20丁
■吉田宿は、慶長6年(1601年)の伝馬朱印状があり、東海道が設定された当初からの宿場であった。
◎管轄:吉田藩領 ◎人口:5277人 ◎家数:1293軒 ◎旅籠:65軒・本陣2軒

■吉田宿は現在の豊橋市である。古くは豊川に架けられた橋の名から今橋と言い、池田輝政が城主となった1600年頃、今橋は縁起のよい「吉」という字を取り入れ吉田に変えた。宿場は豊川が流れ吉田城を有する城下町で東海道の中でも大きな宿場の一つ「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が・・」と唄われ飯盛女の多かったことでも知られていた。 

吉田  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵 豊橋

御油(旅人留女)

御油宿

■35. 御油(ごゆ)宿(愛知県豊川市) - 2里22丁
■御油宿の宿勢を東海道宿村大概帳(天保十四年1843)から抜き出してみると、戸数316・本陣4・脇本陣0・旅篭62軒、人口は1298人(男560人・女738人)、町並は9町32間(1298m)となっています。   特筆すべきことは本陣が4軒もあることで、53宿のうちで箱根と浜松の6軒に続いて小田原の4軒とともに第3位である。 また、旅篭率(全戸数に占める旅篭のの割合。本陣を含む)は20.9%となり、第5位にランクされる。(1位は箱根の40.1%) 

御油  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

人口の男女差は178人も女が多く、飯盛女(遊女)などサービス業に多くの女性が従事していたことが推察される。遊女の数は旅篭1軒につき2人までと規制されていたが、実際はその倍くらいはいたようである。  ◎管轄:幕領 ◎人口:1298人 ◎家数:316軒 ◎旅籠:62軒・本陣4軒
■「御油・旅人留女」:宿場の旅籠屋の前で、留女が着物の片袖を持ち、しきりに旅人に謝っているのは、あまりにもしつこく旅人の袖を引っ張っているうちに、それを引きちぎってしまったと見える。東海道の御油・赤坂の留女は、初代歌川広重が保栄堂版「東海道五拾三次之内 御油」で描いているように、しつこく客を引くので有名であった。
■愛知県豊川市、街道の面影を残す松並木(御油の松並木)が美しいことから御油は観光地になっている。
  

赤阪(旅舎招婦ノ図)

赤坂の東海道筋で唯一営業を続けている旅籠として、「大橋屋」がある。創業は慶安2年(1649年)、現存の建物は正徳6年(1716年)の建築と伝えられ、創業時の屋号は「伊右エ門 鯉屋」であった。
■36. 赤坂宿(愛知県豊川市) - 16丁
■赤坂宿は、戸数349・本陣1・脇本陣3・旅篭62軒、人口1304人(男578人・女736人)、旅篭率は18.9%(第7位)で、御油宿とほぼ同じ規模である。赤坂は幕府の直轄地でありながら吉田・御油と並んで遊女の多い歓楽街として栄えた宿場である。「御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い」「御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」江戸時代の俗謡が当時の様子を物語っている。


藤川(棒鼻の図)

■37. 藤川宿(愛知県岡崎市) - 2里9丁
■鎌倉街道時代からの古い宿場である。明治に入り、鉄道の発達とともに宿駅の機能は失われ、紡績工場が発展した。しかし旅人を日照りや寒風から守る松並木は、開発の波に押されながらも、大切に保存されている。藤川宿の名物は麦の穂が紫色の「むらさき麦」と「藤の花」で芭蕉の句にも「ここも三河むらさき麦のかきつばた」と詠まれている。 近くの旧東海道には1kmほどの松並木がある。
■藤川宿の辺りでは、かって、むらさき色の麦「紺屋麦(高野麦)」を栽培していた。 東海道名所図会では「藤川、この辺に紫麦を作る。これを高野麦という。」と紹介している。 

藤川  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

岡崎(矢矧(やはぎ)之橋)

岡崎(矢矧(やはぎ)之橋)

■38. 岡崎宿(愛知県岡崎市) - 1里25丁
■ 岡崎は徳川家康の生誕の地であり。城下には敵の進入を防ぐため、道を複雑に巡らせ「岡崎27曲がり」と言われた特徴ある城下町でもある。名物の八丁味噌は有名。矢矧の橋を渡る大名行列を描いたもの。

岡崎(矢矧(やはぎ)之橋) 安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

■岡崎の矢矧(やはぎ)之橋は、豊臣秀吉が蜂須賀小六に拾われた橋です。
■八丁味噌(はっちょうみそ)とは、愛知県岡崎市で生産されている味噌。米麹や麦麹を用いず大豆のみから作られる豆味噌の一種であり、赤褐色の辛口味噌である。名古屋圏では「味噌汁」といえば八丁味噌を用いた赤い汁のものが一般的であり、米味噌を用いた味噌汁のことは「白味噌汁」と言って区別している。主に八丁村(岡崎城より西へ8町離れていたことが村名の由来とされる、現在の岡崎市八帖町)で作られていたことから、八丁味噌と呼ばれた。
  

■浮世絵師・安藤(歌川)広重(廣重)が描いた日本切手・東海道五十三次(国際文通週間)です。ご自身の旅行した時の事を思い出してください。 この頃の武蔵国の人口は1834年(天保5年) - 171万4054人。 葛飾北斎は、天保2年に「冨嶽三十六景」を刊行し、その影響もあったのか、広重は天保の大飢饉の最中の天保3年(鼠小僧次郎吉が獄門になった年)夏、幕府が朝廷に御馬を献上する八朔御馬献上儀の旅に、加わりこの模様を写生したそうです。このスケッチをもとに「東海道五十三次続絵」を保永堂より出版しました。「日本橋」から「三条大橋」までの宿場を舞台に、旅に関わる風物、人物を自然の景観のなかに抒情ゆたかに描き、雪や雨など、自然現象がかもしだす風情をたくみにあらわしています。広重の個性がよく発揮されたこの連作は、旅行ブームを背景に庶民の間で大いに人気を博しました。

The 53 Stations of the Tookaidoo (東海道五十三次, Tookaidoo Gojuusan-tsugi) are the rest areas along the Tookaidoo, which was a coastal route that ran from Nihonbashi in Edo (modern-day Tokyo) to Sanjoo oohashi in Kyoto.


 

日本切手 東海道五十三次 袋井から岡崎まで の切手

カウンター