Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 美術切手|浮世絵師・歌川広重が描いた「東海道五十三次」江戸・日本橋から三島まで 時期は天保の大飢饉(江戸四大飢饉の一つ)の真っ只中。 武蔵国(日本橋、品川、川崎、神奈川、程ヶ谷)、相模国(戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原)、伊豆国(箱根、三島)

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日本切手 東海道五十三次 江戸・日本橋から三島までの切手

 今まさしく江戸の日本橋を早朝に出立する江戸の浮世絵師・安藤広重(歌川広重)が描いた日本切手・東海道五十三次(国際文通週間、浮世絵)。 江戸・日本橋から相模国を経由して伊豆国の三島まで。元号が元禄になる頃には江戸の人口は100万人を確実に超えています。 非常に大きな町だったようです。 日本橋は、江戸城の堀から隅田川に注ぐ日本橋川に架かった橋で江戸の中心であったばかりか、日本の中心の橋で、東海道を含む五街道は全てここ日本橋が起点になっていた。 葛飾北斎の「冨嶽三十六景」も掲載。
 時期は天保の大飢饉(江戸四大飢饉の一つ)の真っ只中。
 武蔵国(日本橋、品川、川崎、神奈川、程ヶ谷)、相模国(戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原)、伊豆国(箱根、三島)


 歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の道順 索引

江戸〜京間里程124里8丁。

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 広重の東海道五十三次の切手と浮世絵(江戸・日本橋から三島まで)

武蔵国

江戸・日本橋(朝之景)

広重の日本橋(サンマリノ)

江戸・日本橋の部分

名所江戸百景 日本橋江戸ばし

江戸 日本橋 安藤広重 浮世絵 文通週間

歌川広重(1797-1858)筆「東海道五十三次之内 日本橋」 東海道五十三次・日本橋の部分 安藤広重 名所江戸百景 日本橋江戸ばし   安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

■御江戸日本橋は、東海道最初の起点です。御江戸日本橋七つ立と言いますが、七つとは今の時刻では午前4時の事です。江戸時代の人は、日の出とともにスタートし、日没に宿に到着した様です。日本橋を大名行列が渡り、橋のたもとの高札場付近には河岸で仕入れをした魚屋が描かれています。今では往時の面影が微塵も無いようです。
日本橋は、江戸時代には東海道、中仙道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道の基点とされ、一里毎に一里塚が築かれました。明治時代には、石造りのルネッサン洋式の橋となりました。
 昭和時代に入ると日本橋の上に首都高速道路が開通し、現在は残念ながら悪い景観100景に選ばれています。

広重の日本橋(シエラレオネ)

品川(日之出)

今の東京都品川

品川  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

■1. 品川宿(東京都品川区) - 2里
■品川宿(しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。

■1601年 品川宿が設置されました。桜の名所であった御殿場山や潮干狩りの袖ヶ浦などを近隣にかかえ、旅籠屋の抱える飯盛り女の数も多く、江戸近郊の庶民の娯楽地としも盛況をきわめました。今では新幹線も止まります。御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。古典落語の廓噺(居残り佐平次、品川心中等)の舞台となっており、他の宿場がそうであったように岡場所(色町)としても賑わっていたことが覗われる。

川崎(六郷渡舟)

今の神奈川県

■多摩川を渡る所が、六郷の渡しです。川崎といえば、川崎大師が有名で、初詣のメッカです。40年位前の子供の頃、父親と出かけました。生まれ育った小田原とは大きく違う、人の多さにびっくりしたものです。

2. 川崎宿(神奈川県川崎市川崎区) - 2里半
川崎宿は他の宿場より遅く、元和 9年(1623年)に正式な宿駅となったといわれる。 今、川崎の人口は全国第9位

神奈川(台之景)

■現在の横浜市です。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方へ赴く際、今の神奈川の海辺柚ヶ浦に船出の用意をしました。そこが「上無川(かみなしがわ)」なのでした。その時、倭姫(やまとひめ)にいただいた宝剣が金色燦然としてこの川水に映ったので、この地を金川(かながわ)と名付け、その後時が移り、源頼朝がこの金川(かながわ)の風光を賞し、「<金>は西の方角をつかさどるというが、西方は上(かみ)にあたるしし,皇城(こうじょう=都、天子のすむところ)にもあたる。これは神を大いに示す地である。」として<大いに示す>を「奈」の字にして、金川→神大示川→神奈川とすべきだといったので、その時から金川を神奈川としたという話です。

神奈川宿は、その昔ペリーが開港を迫ったところです。神奈川宿の浮世絵では、現在の青木橋付近から横浜駅方面を望む。亀甲煎餅が名物とされ、台町からの眺望は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵にも紹介され名所とされた。
■3.神奈川宿(神奈川県横浜市神奈川区) - 2里半

下のグレナダの浮世絵は品川と神奈川を合わせたような絵画ですが神奈川としました。
神奈川 グレナダ 帆掛け舟

神奈川  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵
東海道五拾三次之内 
神奈川(神奈川県)

東海道五拾三次之内 神奈川(神奈川県)

程ヶ谷(保土ヶ谷、帷子橋)

程ヶ谷宿・帷子橋

■保土ヶ谷:かつての権太坂は一番坂、二番坂と急勾配が続き、江戸を出発した旅人が最初に迎える難所として知られていました。 また、この難所を登り切ると武蔵国と相模国の国境にあたる境木にたどり着きます。境木はきわめて眺望が良く、難所を越え一息つける場所として茶屋が軒を連ねていました。その様子は浮世絵にも描かれています。後ろの山は神戸山か。

■4. 程ヶ谷(保土ヶ谷)宿(神奈川県横浜市保土ケ谷区) - 1里9丁

隷書版・からびら橋

葛飾北斎の描く
「冨嶽三十六景・保土ヶ谷」

葛飾北斎の描く「富嶽三十六景・保土ヶ谷」

「保土ヶ谷」という地名の由来は複数説がある。最も有力なのは古代で、旭区から保土ヶ谷区にかけて広大な榛谷御厨(はんがやみくりや)が存在し、「はんがや」が「ほどがや」に転訛したという説です。現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区。  

相模国

今の神奈川県

三代広重「保土ヶ谷」電信創業100年(1970年)

戸塚(元町別道)

■宿場町戸塚の東の玄関/江戸方見付跡(吉田町) 江戸から見て戸塚宿の入口であることを示す標識「見附」があった場所です。ここから先、約3.5キロメートルの町並みが東海道の宿場町として整備されていました。 戸塚宿の江戸の方を江戸方見附といい、京都の方を 上方見附といいました。鎌倉との分岐点でもある。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であった。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝であった。元遊廓の名残として、料亭の「丁字屋」が近年まで営業していた。神奈川県横浜市戸塚区。
■5. 戸塚宿(神奈川県横浜市戸塚区) - 2里9丁

三代広重「保土ヶ谷」電信創業100年

戸塚  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

藤沢(遊行寺)

■6. 藤沢宿(神奈川県藤沢市) - 1里30丁
■宿場町藤沢は、鎌倉時代末(正中二年・1325)に遊行四代呑海上人が時宗の総本山・遊行寺(絵では山の中に大きく描かれている)を開いて以来、その門前町として栄えました。慶長五年(1600)関ヶ原の戦の翌年、街道整備を目的に「伝馬掟朱印状」が発せられ、ここに「藤沢宿」が誕生します。まず、「藤沢御殿」と呼ばれる、将軍専用の宿泊所を中心に据え、それまでの門前町に大久保町、坂戸町を加え宿駅が形成されていきました。

藤沢・遊行寺

  藤澤(神奈川県) 東海道五十三次 藤沢・遊行寺

この藤沢御殿は、寛永十二年(1635)に参勤交代が制度化され、大名の宿泊施設としての本陣などが整えられると姿を消していきますが、それまでの間に、徳川家康、秀忠、家光と三代にわたり30回近く利用されています。そして、世の安定と共に「藤沢宿」は、東海道の要所としてだけでなく、従来の遊行寺、更に江島詣、大山詣を加え、その賑わいの度を増していったのです。神奈川県藤沢市。 

平塚(縄手道)

平塚宿

平塚宿は江戸より七つ目の宿場にあたります。高座郡藤沢宿から相模川を越え、馬入村に入り、次いで平塚新宿、そして平塚宿になります。平塚宿は慶長六年(1601)に成立します。隣接する淘綾郡大磯宿までは27町(約3km)の道のりで、県下でも宿と宿との間が最も短い宿場でした。縄手道の副題から、川ではなく田圃のようです。正面の丸い山は高麗寺山で富士山が覗いています。先には花水川に架かった花水橋を渡る旅人。昔学校に通っていた頃に電車から眺めていた風景です。神奈川県平塚市。
■7. 平塚宿(神奈川県平塚市) - 3里半

平塚  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵 平塚 馬入川 

大磯(虎ケ雨)

■8. 大磯宿(神奈川県中郡大磯町) - 27丁

グレナダ・平塚
 大磯  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

■小田原宿から4里(16キロメートル)隔てたところが大磯宿です。江戸時代、大磯宿はたびたび大きな火災に見舞われています。なかでも宿内450軒が焼失した天保7年9月の大火、嘉永6年8月の漁師町家数380軒余のうち312軒を焼き尽くした大火などはよく知られています。つい最近までは吉田首相の別宅(2009年歴史の表舞台も火事で消失)があり有名でしたが、今では大磯ロングビーチ(一頃はタレントの輩出番組でよく使われいました)ですが寂れてると聞いてます。変わるものです。吉田茂首相の別荘もありましたが火災で消失です。

平塚 グレナダ  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵
絵の内容からは行書版に
近い絵柄です。

延台寺の虎御石は、 曽我兄弟の仇討ちの際に、工藤祐経の攻撃を受けた曾我時致の身代わりになったといわれている。 神奈川県中郡大磯町。曽我の十郎の愛人・虎御前が住んでいた事から名前が。

■曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。

小田原(酒匂川)

グレナダ・行書版に近い 小田原宿

■9. 小田原宿(神奈川県小田原市) - 4里
■小田原は、店長が生まれた所です。箱根の玄関口で、風光明媚な所です。絵では山(多分、明神が岳)の右側に富士山が見えます。本来の市街地は山の麓です。江戸時代、小田原を流れる酒匂川には橋がなかった。江戸防衛の名目から橋も渡船も無く、旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなった。昔はこの川で鮎や鰻釣りをよくしたものです。今では堰が出来てしまい昔の面影はありません。絵の奥には小田原城も見え、山は明神ヶ岳。神奈川県小田原市。

 酒匂川 小田原  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵    安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

箱根(湖水図)

(小田原と箱根)

■箱根、元和5年(1619年)徳川二代将軍秀忠の時代に、主として諸大名の謀叛防止のために開設されたといわれ、「入鉄砲に出女」といって特にこの二つを厳重に取り締まった。以来250年以上にわたり厳しい掟で東海道を上り下りする旅人を苦しめ続けました。標高725m という五十三次の中で最も高い場所に置かれていたため、幕府も宿場の維持に苦心したという。 神奈川県足柄下郡箱根町。
■10. 箱根宿(神奈川県足柄下郡箱根町) - 4里8丁  

 箱根  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

■箱根八里 ・・ 出身が神奈川県の小田原ですので小学校の時から意味も分からず歌ってきました。
箱根の山は 天下の険 函谷関
(かんこくかん)も物ならず  万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳
(そび)え後(しりえ)に支(さそ)う   雲は山をめぐり   霧は谷をとざす   昼猶(なお)(くら)き杉の並木
羊腸
(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)(なめら)か   一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する剛毅
(ごうき)の武士(もののふ)   大刀(だいとう)腰に足駄(あしだ)がけ 八里の岩ね踏み鳴らす
(か)くこそありしか往時(おうじ)の武士(もののふ) 

伊豆国

■11. 三島宿(静岡県三島市) - 3里28丁
■三島宿は、伊豆半島の西の付け根。富士からおくられる豊かな水、縄文の太古から続く豊かな緑、頼朝が源氏再興を志した舞台(伊豆一宮、頼朝旗揚げの地、右の鳥居の奥には三島大社である。)はその後、東海道三島の宿場として栄え、 歌人若山牧水、太宰治、井上靖等多くの作家にこよなく 愛されたまちです。昔は遊女や芸者さんたちも多かったと聞いています。静岡県三島市。以下は『農兵節』です。

三島女郎衆はノーエ  三島女郎衆はノーエ
 三島サイサイ  女郎衆は御化粧が長い
御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ
 御化粧サイサイ  ながけりゃ御客がおこる

歌川広重画 東海道五拾三次之内 三島(静岡県)

今の静岡県

三島(朝霧)

歌川広重画 東海道五拾三次之内 三島(静岡県)
三島   安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

■浮世絵師・安藤(歌川)広重(廣重)が描いた日本切手・東海道五十三次(国際文通週間)です。ご自身の旅行した時の事を思い出してください。 この頃の武蔵国の人口は1834年(天保5年) - 171万4054人。 葛飾北斎は、天保2年に「冨嶽三十六景」を刊行し、その影響もあったのか、広重は天保の大飢饉の最中の天保3年(鼠小僧次郎吉が獄門になった年)夏、幕府が朝廷に御馬を献上する八朔御馬献上儀の旅に、加わりこの模様を写生したそうです。このスケッチをもとに「東海道五十三次続絵」を保永堂より出版しました。「日本橋」から「三条大橋」までの宿場を舞台に、旅に関わる風物、人物を自然の景観のなかに抒情ゆたかに描き、雪や雨など、自然現象がかもしだす風情をたくみにあらわしています。広重の個性がよく発揮されたこの連作は、旅行ブームを背景に庶民の間で大いに人気を博しました。


 

■天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)は、江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年(天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。主な原因は洪水や冷害であった。
寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉のひとつ。単に天保の飢饉とも言う。各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を越えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。
   

The 53 Stations of the Tookaidoo (東海道五十三次, Tookaidoo Gojuusan-tsugi) are the rest areas along the Tookaidoo, which was a coastal route that ran from Nihonbashi in Edo (modern-day Tokyo) to Sanjoo oohashi in Kyoto.

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