乗り物の切手|大航海時代に活躍した帆船やヨット
世界の船舶(帆船・ヨット)切手です。帆船と言うよりか帆掛け舟と言うと、何故かマッタリとした気持ちになりますね。
実は帆船は、利権を争う大航海時代に新大陸発見や香料の発見などで大いに活躍した船です。 それと、現在ではスポーツにもなっているヨットの切手を取り上げています。
また帆船の航海に必要な羅針盤(方位磁針:磁石の作用を用いて方位を知るための道具)は、11世紀の中国の沈括の『夢渓筆談』正確には「真貝日誌送」にその記述が現れるのが最初だとされる。これによって大航海時代が始まる。
参考として帆船の代表的なものをあげれば、@ヨット:1本マストで、縦帆の帆船である。Aシップ:すべてのマストが横帆の帆船である。Full rigged
shipの略。全装帆船。ただし2本マストの場合は「ブリッグ」と呼ばれる。サン・ビセンテ岬の海戦やトラファルガーの海戦で活躍した「ビクトリー」や、ティークリッパーとして有名なカティーサークもシップに分類される。ドイツの「プロイセン」(1902年建造)は建造当時最大の5本マストのシップであった。Bスクーナー:すべてのマストが縦帆の帆船である。2本マストの小型船が主だが、アメリカの「トマス・W・ローソン」(1902年建造、7本マストのスクーナー)の様に大型多マストのスクーナーも存在する。C
スループ:一般のスループ(sloop)は1本マストに縦帆2枚で、ほぼヨットに等しい。
乗り物の切手索引 [ 自動車関係(バイク・自転車 |自動車切手、バス、馬車 |レーシングカー・ラリーカー)| |
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帆船・ヨット |
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■帆船は紀元前3000年頃の古代のエジプト時代から登場し、以降地中海で多く使われ歴史にも度々登場しています。所がエジプトのナイル渓谷の遺跡には、帆をもった舟らしき壁画が残されている。この壁画は約8000年前に描かれたと推定されています。相当昔から帆船はあったようです。 |
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ニサヤ会社時代の帆船 |
第一次世界大戦(ダンヒチ) |
咸臨丸(日本) |
旧中国、ジャンク |
(参考)詳細はこちら。 |
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チャネル諸島ジャージー島の帆船 |
ジャージー島の帆船 |
台湾・鄭和の航海船(ジャンク) |
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■鄭 和(てい わ, 1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だったとされる。 |
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トンガの属島の帆船切手 |
日本の帆掛け舟・菱垣廻船 |
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イギリス |
■菱垣廻船(ひがきかいせん)とは、日本の江戸時代に、大坂などの上方と江戸の消費地を結んだ廻船(貨物船)である。樽廻船と並び称される。菱垣とは、両舷に設けられた垣立(かきだつ)と呼ばれる舷墻に装飾として木製の菱組格子を組んだ事に由来。米・糠などの7品は菱垣廻船と樽廻船の両方、酒は樽廻船、他は菱垣廻船で運ぶという仕法。 |
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グレート・ブリテン号 |
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トンガの帆船(ガレオン船 他) |
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カンボジアの帆船 |
コンコード号(USA、1983年) |
NY市300年(アメリカ,1953年) |
フィリピン(占領地・ビンタ船) |
ドイツ人入植300年 |
ニュー・アムステルダム港とオランダ船 |
水害救済慈善切手 |
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1701年の戦艦(デンマーク、1951年) ベーリングの船(デンマーク、1941年) |
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■ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Vitus Jonassen Bering)はデンマーク生まれのロシア帝国の航海士、探検家。ベーリングの名にちなんだものに、ベーリング海、ベーリング海峡、ベーリング島、ベーリング地峡がある。1725年〜1730年まで、また、1733年〜1741年まで、2回のカムチャツカ探検を率いて、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを確認した。アラスカに到達し、アリューシャン列島(アレウト諸島)の一部を発見した。 |
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■バイキングの船:8世紀には、スカンジナビア半島のノルマン人(バイキング)が独特の船でさかんに外洋に乗り出しました。バイキングはおおいのない船で大西洋を渡ったほど勇敢な船乗りでした。バイキングの船は15〜50mの長さがあり、1枚の4角の帆をもち、それぞれの船縁に60人までのこぎ手をのせることができました。1日150海里(約280Km)を進んだといいますから、たいへん速い船だったといえます。 バイキングの交易用の船はクナーと呼ばれ、より幅が広く、主に帆によって少人数の乗員で航海しました。船体が浅いので川の上流まで航行できるため、クナーはバイキングたちを遠くアイスランドやグリーンランドまで送りだし植民化させています。 |
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スウェーデンの帆船(ブレキンエイ,ボフスレン,ノルボッテン) |
(ヘルシングランド,スコーネ,ゴットランド) |
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イギリス カティー・サーク |
ガレオン船 |
イースト・インディアマン号 |
カティーサーク(Cutty Sark)は、中国からイギリスまで紅茶を輸送する快速船「ティークリッパー」として、いかに速く一番茶を届けるか競っていた船で,19世紀に建造されたイギリスの帆船です。 |
■ガレオン船, Galleon とは、16世紀半ば〜18世紀ごろの帆船の一種である。16世紀に入ると帆船の主流はキャラベル船、キャラック船からガレオン船に代わっていった。単にガレオン・ガリオン・ガリアンなどとも表記される。戦列艦の原型にもなった。カラックから発展した船形で、カラックに比べて幅と全長の比が1:4と長く、吃水が浅いためより速度が出るが同時に転覆もしやすくなった。カラックより小さめの船首楼と大きい1〜2層の船尾楼を持ち、4〜5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。 |
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日本・遣唐使船 |
日本・遣明船 |
日本・大成丸 |
日本の帆掛け舟(桑名) |
■最初の遣唐使は、630年(舒明2、飛鳥時代)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという朝貢使であった。遣唐使は、寛平6年(894年)
菅原道真の時に停止となりました。 遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川駅)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て那の津(福岡県福岡市)に至る。その後は、朝鮮半島沿いの北方ルートを取り以降は徐々に南下したルートを取ったったと推定されている。 |
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日本・御朱印船 |
日本・天地丸 |
日本・千石船 |
日本・昌平丸 |
練習帆船・日本丸・海王丸 |
日本・朱印船 |
造船350年(米国製最初の船) |
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浮世絵 |
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■遣唐使船は船底が平底で、まるで箱が海に浮いているようなものでした。遣唐使船は竜骨を用いない平底のジャンク船に似た箱型構造で、簡単な帆を用いていた。横波に弱く無事に往来出来る可能性は低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。八世紀の遣唐使のうち全ての船が往復できたのは、なんとたった一回だけというから驚きです。遣唐使船が四隻なのは、どれか一つでも中国に着くためだったのです。 |
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帆船日本丸 |
にっぽん丸と長崎・女神大橋 |
和歌浦沖の帆船・海王丸 |
霞ヶ浦と帆引き船 |
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■海王丸(かいおうまる)は、日本の航海練習船で大型練習帆船。初代海王丸と、2代目の海王丸II世がある。初代海王丸は1930年(昭和5年)進水、約半世紀にわたり「海の貴婦人」として親しまれ、1989年(平成元年)引退、海王丸II世がそのあとを引き継いだ。 |
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カナダ(1977年) |
カナダ(1975年) |
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Pinky号、5本マスト・スクーナー |
テム・スクーナー、マッキノー船 |
Wm.D.Lawrence号、Neptune号 |
Beaver号、Ouadra号 |
■スクーナー(schooner)とは、2本以上のマストに張られた縦帆帆装を特徴とする、帆船の一種である。スクーナーは、最初にオランダで16世紀から17世紀にかけて用いられ、アメリカ独立戦争の時期に北米で更に発展した。スクーナーは2本以上のマストを持ち、最後部のマストが最も高いか、もしくは全て同じ高さとなっている。伝統的なスクーナーは最前のマストにガフセイルを持つ。 |
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Clipper号(シンガポール) |
東インド交易船 |
日本・沖縄・御冠船(1961年) |
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パナマ発行の帆船の絵画(1968年) |
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Gamiero |
Lebreton(帆船とクジラ) |
作者不詳の日本の絵画 |
Le Roi |
Van de Velde |
Duncan |
世界遺産の自由の女神と帆船・日本丸と海王丸 | |
■日本丸(にっぽんまる)は、日本の航海練習船で大型練習帆船。1930年(昭和5年)に進水した初代の日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年(昭和59年)に引退した。航海練習船としての役割は日本丸II世が引き継いだ。海王丸(かいおうまる)は、日本の航海練習船で大型練習帆船。初代海王丸と、2代目の海王丸II世がある。初代海王丸は1930年(昭和5年)進水、約半世紀にわたり「海の貴婦人」として親しまれ、1984年(昭和59年)引退、海王丸II世がそのあとを引き継いだ。 |
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日本丸と商船教育の創始者 |
カリビアン・レガッタのオープンデッキ・スループ(グレナダ) |
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スウェーデンの帆船とヨット |
ヨット(スーダン、1962年) |
ジャンク(シンガポール) |
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■ジャンク(戎克, 英: Junk)とは、中国における船舶の様式の1つ。1000年以上前に中国で開発されたのが平たい船底を持った「ジャンク」と呼ばれる船です。古くから用いられきた木造帆船だが、物資・貨客の輸送業務においては、19世紀以降蒸気船が普及したことにより衰退した。船体中央を支える構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の水密隔壁で区切られている。また、横方向に多数の割り竹が挿入された帆によって、風上への切り上り性に優れ、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって突風が近づいた時などに素早く帆を下ろすことを可能にしている。 |
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アメリカズカップ(オーストラリア) |
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■アメリカスカップ(America's Cup)は、1851年より現在まで続く国際ヨットレース。また、その優勝杯の名。その成立は近代オリンピックより45年、サッカーのワールドカップより79年、全英オープンゴルフよりも9年早く、継続して使用されている世界最古のスポーツトロフィーとして広く一般に認知されている。名称の由来は最初の優勝艇の『アメリカ号』の名を冠した『アメリカ号のカップ』であり、決して『アメリカ合衆国のカップ』という意味ではない。しかし、その後132年に渡ってアメリカ合衆国のヨットクラブがカップを防衛してきたため、事実上『アメリカ合衆国のカップ』と同じ定義で称される。 競技の本質は、カップの寄贈者が記した贈与証書の規定に基づき、アメリカスカップを掛けてマッチレース(1対1)形式で争われるヨットクラブ間の国際親善レースである。 |
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ポルトガル ベレン、リスボンのTejo川には多数のヨットが係留されています。 |
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リスボンのTejo川のfragata(ヨット) Aveiro川のMoliceiro(ヨット) |
リスボンのTejo川のVarino(ヨット) ガレオン船(ポルトガル) |
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第3回南太平洋競技会・ヨット |
ディンギー(イギリス、1975年) |
霞ヶ浦のヨット(日本) |
ココス・キーリングのスクーナー(シンガポール、1955年) |
キャットボート(軽快に走る一枚帆の小型帆船)、ケイマン諸島 |
■スループ (オランダ語 sloep) は帆船の一種で、一本の帆柱に二枚の縦帆を持つ小型のものを指す。18世紀から20世紀まで用いられたフリゲートよりも小型の軍艦。一般の(軍艦でない)スループとは大きさや帆装が異なるため、特にスループ・オブ・ウォーとも呼ばれる。帆走時代のものは一層の砲甲板に10から20の大砲を搭載しており、2本か3本の帆柱を有していた。帆柱が2本のものをブリッグ・スループ、3本のものはシップ・スループに分類するが、厳密な帆装形式による区別ではなく帆柱の数による区別であり、シップ・スループでもシップ形式の帆装とは限らない。主に船団護衛艦や沿岸警備艦として用いられた。 |
UAEの伝統的なJALBOAT |
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Twa-kow(シンガポール、1955年) |
ロンボク島のスループ船 |
Terengganu州のpinas |
Timber tongkong |
福建のジャンク(1980年) |
Golekkan |
Palariの船 |
Caravelの船 |
■ディンギー(dinghy)とはキャビンを持たない小型のボートのことをいうが、一般的に風のみを動力とするセーリング・ディンギー(ヨット)を指す。 |
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アメリカ大陸発見(コロンブス関連) 人物は こちら です。 |
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■有名帆船・サンタ・マリア(15世紀、スペイン):1492年、コロンブスによる初の大西洋横断航海のときに使われた3隻の帆船のうちの最大の船で、コロンブスが乗船した。イスパニョーラ島発見後に座礁、解体された。マストの本数、帆数と種類は判明しているものの船体については不明な部分が多い。船型はキャラック(ナオ)であったという説が有力です。 |
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コロンブスの旗艦 |
コロンブスの艦隊 |
コロンブス(メイフラワー号) |
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ナヴァリノの海戦100年(ギリシャ、1927年) |
■ナヴァリノの海戦(Battle of Navarino)はギリシャ独立戦争中に行われた戦いの一つ。数は多いが旧式艦ばかりのオスマン帝国艦隊(大小130隻(大砲2430門))とイギリス・フランス・ロシア連合艦隊(27隻の戦列艦(大砲1280門))のギリシアナヴァリノ湾での海戦で、帆走主力艦同士の最後の戦いとなった。 ナヴァリノ湾において停泊中のオスマンの艦隊に対し、交渉を行うために三国連合艦隊がオスマン艦隊の近辺に停泊し、使者を派遣したが銃撃を受けたためにただちに応戦。大規模な海戦が勃発した。非常に近接した距離での射ち合いでオスマン艦隊は碇を下ろして身動きがとれなくなっていたことや、装備が劣っていたことなどから開戦4時間でほとんどの艦が戦闘不能に陥り、戦闘は三国連合艦隊の勝利に終わった。帆船のみをもって行われた最後の大海戦.。 |
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乗り物の切手|大航海時代に活躍した帆船やヨット |
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