Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
有名人の切手|世界の探検家や冒険家:コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、キャプテンクック、玄奘三蔵、マルコ・ポーロ、ベーリング、鄭和・・

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世界の探検家や冒険家の切手

 世界の冒険家や探検家の切手。 大航海時代(凡そ15世紀の末から16世紀のはじめまで)には世界を挙て新領土確保の為に、羅針盤を使い探検をしました。 見たことも無い地に足を下ろす事の怖さ以上に歓喜に溢れるものだったに違いありません。 コロンブスを代表にヴァスコ・ダ・ガマ、キャプテンクック、「西遊記」や孫悟空で有名な玄奘三蔵、東方見聞録のマルコ・ポーロ、ベーリング、中国の鄭和や世界の冒険家や探検家の切手を収録しました。切手では探検家が中心となっています。 探検家(たんけんか)とは、探索すべき余地が残されている未知の領域に直接に赴くことにより調査する人々を指します。 取り分け極地の探検家に関してはわが国の有名な探険家・白瀬中尉以外は、別頁でご案内をしています。 地球が丸い事は次の事から分かった様だ。 紀元前5世紀ギリシャのプラトンは、その著書の中で地球が丸いことを書いています。 それは、月食の時 月に写る地球の影が丸いから。 また、紀元前3世紀のアレキサンドリアの図書館長だったエラトステネスは、エジプトのアスワンとアレキサンドリアとの太陽の南中高度の違いから地球の全周の大きさを求めた。

 
 

冒険家・探検家

世界の有名人切手の索引 [ 映画関係マリリンモンロー)|音楽関係スポーツ関係王室・独裁者・小説家・その他
   ノーベル賞受賞者日本の文化人国別の世界の有名人探検家や冒険家古代エジプトのファラオ達 ]

コロンブス

■クリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo、英語式表記はChristopher Columbus ,1451年頃 - 1506年5月20日)はイタリアのジェノヴァ出身の探検家・航海者・商人。大航海時代において最初にアメリカ海域へ到達したイタリア人である。アメリカ大陸の発見。コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と返した。これが「コロンブスの卵」の逸話であり、「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事で今日使われているが、逸話自体は後世の創作であるという説が一般的である。

ポーランド コロンブス 切手 サンタマリア号 冒険家・探検家 スペイン コロンブス 冒険家・探検家

スペイン発行のコロンブス

コロンブスの旗艦と艦隊
(1893年、アメリカ、世界コロンブス博覧会)

ハンガリー発行のコロンブス

ルーマニア発行のコロンブス

コロンブスの旗艦と艦隊(1893年、アメリカ、世界コロンブス博覧会) コロンブスの旗艦と艦隊(1893年、アメリカ、世界コロンブス博覧会) ハンガリー発行のコロンブス コロンブス Christopher Columbus

コロンブスの航海(スペイン、1930年)

コロンブスの航海(スペイン、1930年)
コロンブスの航海(スペイン、1930年) コロンブスの航海(スペイン、1930年)

コロンブスの航海(スペイン、1930年)

■サンタ・マリア号(La Santa Maria)は、1492年、コロンブスによる初の大西洋横断航海のときに使われた3隻の帆船のうちの最大の船。ナオ船(スペインで建造されたキャラック船の一種)と呼ばれる型の帆船で、長さ約70フィート(18メートル)、甲板と3本のマストを備えていた。大西洋を無事に横断しバハマ諸島に到達したが、探検の途中、1492年12月24日にイスパニョーラ島で座礁し解体され、使える木材は要塞の資材として使用された。

コロンブスの航海(スペイン、1930年)

■1920年にアメリカ合衆国で発行された「ピルグリム300年」

メイフラワー号

ピルグリムの上陸

盟約への署名

1920年にアメリカ合衆国で発行された「ピルグリム300年」 1920年にアメリカ合衆国で発行された「ピルグリム300年」

参考)アメリカ合衆国旅行写真 [ プリマスは「アメリカの故郷」(America's Hometown、ピルグリム) ]

アベル・タスマン

■アベル・タスマン(アベル・ヤンセン・タスマン、Abel Janszoon Tasman、1603年 - 1659年10月10日)はオランダの探検家。特にオランダ東インド会社の元で行った1642年と1644年の航海が有名。 1643年には現在のタスマニア島とニュージーランド、フィジー等を発見した。

タスマンと船、ニュージーランド西海岸の地図(NZ、1940年)

ペトーン・ビーチ到着の入植者1840年(NZ,1940年)

タスマンと船、ニュージーランド西海岸の地図(1940年) ペトーン・ビーチ到着の入植者1840年(NZ,1940年) ニュージーランド

キャプテン・クック

■ジェームズ・クック(James Cook, 1728年10月27日 - 1779年2月14日)は、イギリスの海軍士官、海洋探検家、海図製作者。キャプテン・クック。庶民からイギリス海軍の大佐 (ポスト・キャプテン) に昇りつめ、太平洋に3回の航海を行い、オーストラリア東海岸に到達、ハワイ諸島を発見し、自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し (第二回航海)、ニューファンドランド島とニュージーランドの海図を作製した。史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げた (第一回航海)。

キャプテン・クック(ツバル)

キャプテン・クック入植(ツバル)

望遠鏡

キャプテン・クック(ツバル)
キャプテン・クック(ツバル) 望遠鏡

キャプテン・クックとニュージーランド地図、1769年(NZ,1940年)

キャプテンクック(サモア)

キャプテンクック(サモア)

キャプテン・クックとニュージーランド地図、1769年(NZ,1940年) キャプテンクック(サモア) 鉄砲 ピストル キャプテンクック(サモア)

ヴァスコ・ダ・ガマ

■ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1469年頃 - 1524年12月24日)は、ポルトガルの航海者で、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初の人物であり、しばしばインドへの航路を初めて「発見」したヨーロッパ人であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。

ヴァスコ・ダ・ガマ 探検家 マカオ 切手

澳門(マカオ)がポルトガル領であったこともあり発行されています。

ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)

ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)

ヴァスコ・ダ・ガマ(マカオ)

ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル) ヴァスコ・ダ・ガマ 探検家 マカオ 切手 小型シート

ヴァスコ・ダ・ガマの船
(ポルトガル)

ヴァスコ・ダ・ガマの船団
(ポルトガル)
ヴァスコ・ダ・ガマの船(ポルトガル) ヴァスコ・ダ・ガマの船(ポルトガル)

マルコ・ポーロ

■マルコ・ポーロ(Marco Polo, 1254年9月15日 - 1324年1月8日)は、ルスティケロの著作『東方見聞録』を口述したというヴェネツィア共和国商人、旅行家。『東方見聞録』によれば1271年にイラン・中央アジアを経て上都に入り、皇帝フビライに謁見した。その後、17年間元に仕えた。モンゴルの言葉は話せたが、中国語は話せなかった。中国周辺の各地を巡り、揚州では3年間行政官を務めた。1292年、泉州からイランのイルハン朝を経て帰国したという。日本では、ヨーロッパに日本のことをジパング(Zipangu)の名ではじめて紹介したことでもよく知られている。『東方見聞録』では、日本は「黄金の国ジパング」と紹介されているが、マルコ・ポーロは実際に日本には訪れておらず、中国で聞いた噂的な話として収録されている。また、「黄金の国〜」というのは中尊寺の金色堂についての話を聞いたものと思われる(中尊寺を建立した奥州藤原氏は十三湊を介した対中国交易を行っていた)。

マルコ・ポーロ(イタリア)

カナダ発行(マルコ・ポーロ)の帆船 

マルコ・ポーロ(イタリア) カナダ マルコポーロ 帆船 小型シート 変形 切手

ベーリング

ベーリング(USA、1991年)

ベーリングの船(デンマーク、1941年)

ベーリング(USA、1991年) ベーリングの船(デンマーク、1941年)

■ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Vitus Jonassen Bering)はデンマーク生まれのロシア帝国の航海士、探検家。ベーリングの名にちなんだものに、ベーリング海、ベーリング海峡、ベーリング島、ベーリング地峡がある。1725年〜1730年まで、また、1733年〜1741年まで、2回のカムチャツカ探検を率いて、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを確認した。アラスカに到達し、アリューシャン列島(アレウト諸島)の一部を発見した。

白瀬中尉

■白瀬 矗(しらせ のぶ、 文久元年6月13日(1861年7月20日)- 昭和21年(1946年9月4日)は、日本の陸軍中尉であり、南極探検家。1910年(明治43年)探検の費用補助を帝国議会に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義捐金に依った。船は中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施され、「開南丸」と命名された。因みに命名したのは東郷平八郎である。極地での輸送力は29頭の犬だった。1912年(明治45年)1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名した。同地は上陸、探検に不向きであったためロス棚氷・クジラ湾より再上陸。1月20日に極地に向け出発した。探検隊の前進は困難を極め、28日に帰路の食料を考え、極点到達を断念、南緯80度5分、西経165度37分の地点に日章旗を掲げ、同地を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名した。

白瀬中尉(南極探検家)
とオーロラ

白瀬中尉・南極探検50年

白瀬中尉(南極探検家) 白瀬轟 切手 白瀬中尉南極探検50年

玄奘三蔵

天竺への旅姿の玄奘(台湾)

■玄奘三蔵(げんじょう さんぞう, 仁寿2年(602年) - 麟徳元年2月5日(664年3月7日))は、唐代の中国の訳経僧、三蔵法師。 仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)に国禁を犯して出国した。河西回廊を経て高昌に至り、天山北路を通って中央アジアから天竺(現在のインド)に至る。ナーランダ寺では5年にわたり戒賢より唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て帰国の途につき、貞観19年(645年)1月、657部という膨大な経典を長安に持ち帰った。インドにおいては、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの厚い崇敬と保護を受け、ハルシャ王へも進講している。長年にわたる旅の記録は『大唐西域記』として残されており、当時の中央アジア・インド社会の様相を伝える貴重な歴史資料ともなっている。 帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の翻訳に専念した。玄奘のもとからは、基らの門弟によって創められた法相宗や倶舎宗といった新しい宗派が興った。 遣唐使の一員として入唐した道昭がその教えを受けた。 道昭の弟子とされるのが、行基(行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は日本の奈良時代の僧)である。奈良市の薬師寺「玄奘三蔵院」に一部分骨された。 行基は、日本中を歩き、古式の日本地図である行基図を作成したとされる。
■物語「西遊記」はこちら

鄭和(ていわ)

■鄭 和(てい わ 1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。和を「か」と読むのは古く通例であった。例として和声(かせい)・羲和(ぎか、義和は誤記)などがある。
1405年7月11日、永楽帝の命により第1次航海へと出る。『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)という巨艦であり、船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りに登る。鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だったとされる。第5回目に航海で1419年8月に帰国、永楽帝を喜ばせたのはキリンであり、これは王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「麒麟」として紹介されたからである。

■鄭和の西洋渡航580周年(中国、1985年)

鄭和

平和使節

貿易・交流使節

航海史の業績

鄭和の西洋渡航580周年(中国、1985年)  鄭和の西洋渡航580周年(中国、1985年) 平和使節 鄭和の西洋渡航580周年(中国、1985年) 貿易・交流使節 鄭和の西洋渡航580周年(中国、1985年) 航海史の業績

鄭和(台湾、1994年)

鄭和の三保太監(台湾)

古代から大航海時代までの主要な探検家一覧(出展 Wikipedia)

●航海者ハンノ(紀元前450年頃)…カルタゴから西アフリカ湾岸地域を航海、象牙海岸まで達する。
●張騫(? - 紀元前114年) 中央アジア・・・漢の武帝により月氏との軍事同盟提携のため派遣される
●法顕(337年? - 422年) インド到達
●玄奘三蔵(602年 - 664年) インド到達
●赤毛のエイリーク 10世紀、グリーンランド到達
●レイフ・エリクソン アメリカ大陸到達
●マルコ・ポーロ(1254年 - 1324年) 中国到達
●イブン=バットゥータ(1304年 - 1368年)
●鄭和 (1371年 - 1434年)の南海遠征。海路インドを経由し、アフリカ東岸に達した。
●バルトロメウ・ディアス(1450年頃 - 1500年) 喜望峰到達
●クリストファー・コロンブス(1451年頃 - 1506年) アメリカ大陸到達
●ヴァスコ・ダ・ガマ(1469年頃 - 1524年) 喜望峰経由でインド到達
●ペドロ・アルヴァレス・カブラル (1460年 - 1526年)ブラジル到達
●フェルディナンド・マゼラン(1480年 - 1521年) 世界一周
●フランシス・ドレーク(1543年 - 1596年) 世界一周
●マルティン・アロンソ・ピンソン(1441年 - 1493年) コロンブスに同行。航海における最大の協力者。
●ビセンテ・ヤーニェス・ピンソン(1460年 - ?) コロンブスに同行。ブラジル探検。初のブラジル到達者
 とするか意見が分かれる。
●アロンソ・デ・オヘダ(1465年 - 1515年) アメリカ探検。コロンブス、ヴェスプッチに同行。
●アメリゴ・ヴェスプッチ(1454年 - 1512年) 南米探検。コロンブスが到達した土地がインドとは異なる
 「新大陸」であることを報告。貧困で死ぬ。
●ジョヴァンニ・カボート(1450年 - 1498年頃) 北米探検
●セバスティアーノ・カボート(1474年頃 - 1557年) 北米探検
●バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア (1475年 - 1519年、スペイン) 太平洋到達。パナマ地峡を横断。
 反逆罪で処刑される。
●エルナン・コルテス(1485年 - 1547年) アステカを征服したコンキスタドール。
●フランシスコ・ピサロ (? - 1541年,スペイン) インカ帝国征服。協力者ディエゴ・デ・アルマグロの子に殺される。


 

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