Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

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世界遺産の切手|アジア 中国 シルクロードのオアシス都市・敦煌と莫高窟 : 敦煌は紀元前111年の西漢時代に敦煌都として設立されて以来、歴代シルクロードの交通の中枢として東西文化交流の中心地。 近隣にある莫高窟とそこから出た敦煌文献で有名です。

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アジア(中国)の世界遺産 シルクロードのオアシス都市・敦煌と莫高窟

 アジアの中国(China)に限定した世界遺産・遺跡を中心にした切手(Stamps)で敦煌(Dunhuang、とんこう)を中心に。 シルクロードも通り異文化交流も盛んに行われた土地柄です。 敦煌・莫高窟(ばっこうくつ) が世界遺産として登録されています。 敦煌市は中国甘粛省北西部の都市。かつてシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市。  敦煌は紀元前111年の西漢時代に敦煌都として設立されて以来、歴代シルクロードの交通の中枢として東西文化交流の中心地となって来ました。 近隣にある莫高窟とそこから出た敦煌文献で有名です。 市内には名所旧跡が多く世界的に有名な世界遺産(World Heritage.)・莫高窟千仏洞をはじめ、美しい砂丘の連なる鳴沙山、神秘のオアシス月牙泉、古代シルクロードの二つの要衝・陽関と玉門関、漢代の万里の長城遺跡、河倉故城、白馬塔、三危聖境ほか歴史的遺産の宝庫である。
< 参考:社団法人 日本ユネスコ協会連盟のHP(世界遺産活動)  写真で見る「敦煌はシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市

  
 

世界遺産(アジア編・中国)  敦煌・莫高窟(Dunhuang)

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■敦煌の名前は後漢の学者応劭によると「大にして盛ん」と言う事だが、実際には紀元前からこの地を支配していた月氏の言葉の音訳であるようだ。 紀元前2世紀前半に匈奴に冒頓単于が立ち、月氏を攻めてこの地は匈奴の支配下に入る。冒頓の時代には匈奴に押され気味であった前漢だったが、武帝が即位して、西域に対して積極的に遠征を行い、この地に敦煌郡を設置した。敦煌郡の設置年代についてはかっては紀元前111年と言われていたが、紀元前92年ごろの李広利将軍の大宛(フェルガナ)遠征の際に設置されたとする説が有力となっている。 敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に南北に1,600mに渡って掘られた莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45,000平方メートルになる。

敦煌・莫高窟

敦煌・狩猟(西魏、T126)

敦煌・戦闘(西魏)

敦煌・農耕(北周)

敦煌・塔の建築(北周)

敦煌・伎楽

敦煌・菩薩

敦煌 観音菩薩 世界遺産 切手
伎楽


敦煌・出使西域

出使西域



敦煌・乗龍昇天
乗龍昇天

右は唐代の観音菩薩(1992年)

■1899年に敦煌東南の莫高窟と呼ばれる窟穴より、六朝から北宋時代の古文書類、経典写本、図画などが大量に発見された。壁画の内容を大きく分けると仏僧画、仏の生涯を伝える絵、伝統的な神話・伝説の内容を絵にしたもの、経変画、仏教史跡画、装飾図案、供養者の7種類である。仏教をはじめ西方の文化が中国に伝わる上で重要な役割を果たした。敦煌莫高窟は荒涼たるゴビ砂漠に生まれた精巧かつ華麗な芸術で、建築、壁画、塑像の三者の結びつきにより構成されてる。敦煌文化は中国西北部の各民族文化が融合したものであり、その中心となる中原の漢文化の儒家思想と道家思想をもとにして、西域近隣民族、中央アジア各国、インド、ペルシアの言語、文学、宗教、哲学、芸術の優れた要素を、大胆に吸収、融合し、さらには遙か遠くのギリシア、ローマの文化の仄かな影響をも受けている。敦煌莫高窟は,内部に保存された2400体以上の塑像と合計4500m2の壁画とともに,1987年に世界遺産に登録された。
■菩薩(ぼさつ):ただいま修行中!出家前の王子時代の釈迦がモデルなので、胸飾りやブレスレットを身に付けている。他者を救う“行”をしているので、すぐ助けに行けるよう基本的に立ち姿で表され、瞑想には入らない。坐ったり瞑想していては素早く動けないからだ。

(特3)「偉大なる祖国第1次」より、敦煌の壁画を集めています。 「飛天」は法隆寺壁画にも見られます。

敦煌・狩猟(北魏)

敦煌・扶養人(隋)

敦煌・飛天(隋) 西千仏洞

敦煌・竜(唐)

敦煌の壁画 世界遺産 狩猟(北魏) 敦煌の壁画 世界遺産 扶養人(隋) 敦煌の壁画 世界遺産 飛天(隋) 敦煌の壁画 世界遺産 竜(唐)

(特6)「偉大なる祖国第3次」より、敦煌の壁画

敦煌・馬夫と馬(北魏)

敦煌・伎楽人(北魏)

敦煌・戦闘(隋)

敦煌・牛車(唐)

馬夫と馬(北魏) 中国 敦煌 世界遺産 伎楽人(北魏) 中国 敦煌 世界遺産 戦闘(隋) 敦煌 牛車(唐) 中国 敦煌 世界遺産

敦煌・飛天(唐、1994年)
西千仏洞

敦煌・維摩詰(唐)

敦煌・張議潮出行の図(唐)

魔女(唐)

敦煌・飛天(唐、1994年) 敦煌・維摩詰(唐) 敦煌・張議潮出行の図(唐) 魔女(唐)

敦煌・観闇済難(宋)

敦煌・供養菩薩(西夏) 莫高窟

敦煌・観闇済難(宋) 世界遺産 敦煌・供養菩薩(西夏) 世界遺産

関連ページ 「アジアの旅行写真|シルクロード 敦煌はシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市

敦煌の壁画・莫高窟第3窟の壁画・千手千眼観世音菩薩(1996年)

■敦煌 莫高窟は、敦煌の東南30キロ、鳴沙山の東側の絶壁に築かれた石窟群。窟の数は現存するものが492窟あり、現存する最古のものは第268、272、275窟の北涼窟(5世紀初頭)で、第237、248、251、254、257、259、260、263窟などの北魏窟(500年前後)第249、285、355、432窟などの西魏窟(6世紀前半)がこれに続く。その後、約1000年にわたり石窟の造営や修復が続き現状では、その様式から判断して五胡十六国9、北魏23、西魏2、隋97、唐225、五代34、宋70、西夏25、元7、に時代分けされる。内部は石質が粗い礫岩であるため、四壁と天井を漆喰で塗り、その上全体に壁面を描き塑造の仏像を安置している。仏像類は2415尊にのぼり、例外的な石彫を除き鮮明な彩色が施されています。

敦煌 千手観音 世界遺産

敦煌・干国王(五代)

敦煌・五台山図(五代)

敦煌・干国王(五代) 世界遺産 敦煌・五台山図(五代) 世界遺産

■莫高窟第3窟の壁画・千手千眼観世音菩薩は、中原の漢民族文化と、密教芸術の様式が共に見られる代表的なもので、中国人物画を描く技法である「鉄線描」「折蘆描」「遊ヒソ描」「丁頭鼠尾描」など、多くの線描が用いられている。色遣いも淡く上品で、線描により描かれた仏教芸術では最高のものである。 ラマ教(チベット仏教)は観音を崇拝し、千手千眼観音は信仰の対象としてラマ教寺院によく見られる。別名大悲観音と言われる。 本尊は十一面で、大手が40本。その内2本は化仏(けぶつ:仏の化身、象徴)を捧持、2本は合掌し、2本は托鉢を持っている。34本は種々の印を結んでいる。その他の小手は、全体がまるで光背のように輝いて観音の周りに広がっている。各々の掌の目は観音の慈悲深さを表す。

敦煌・菩薩信仰(T116)

敦煌・ジャータカ

■敦煌莫高窟を象徴する朱色の楼閣「九層楼」は則天武后の命で695年に造られた。則天武后の肖像とも言われる、高さ34メートルの大仏(弥勒菩薩)に、敦煌の庶民たちは千年を超えて祈りを捧げ続けてきた。

■ジャータカ(闍陀迦、闍多伽など)とは、仏教でいう前世の物語のこと。本生譚(ほんしょうたん)ともいう。十二部経の1つ。法隆寺蔵の玉虫厨子には、ジャータカ物語として施身聞偈図の雪山王子や、捨身飼虎図の薩○王子が描かれていることで知られる。

敦煌石窟九層楼((平山郁夫)、
日本、2008)

敦煌・菩薩信仰(T116) 敦煌・ジャータカ 敦煌・石窟九層楼

敦煌・天界の伎楽

敦煌・空を舞う天人

敦煌・天界の伎楽 敦煌・空を舞う天人

西安・唐墓壁画(特別編)

西安 唐墓壁画(ウガンダ)  陝西省歴史博物館

■西安の歴史:西安は昔から長安と呼ばれ、中国歴史上で最も重要な時代周、秦、漢、唐など13王朝が西安に都を定め、西安は中華民族の歴史と文化の発祥地として、また、かつてはシルクロードの出発点であり、歴代の皇帝のお墓、仏教史に残る名刹/お寺、古代遺跡などの見切れないほどの文化遺産が西安に遺されています、なかでも、1987年に世界文化遺産に登録された秦始皇帝陵と兵馬俑坑があります。また、昔から、遣隋使、遣唐使を受け入れ、西安は日本とのかかわりも深くて、現在も京都市と奈良市とで友好都市の関係にあります、遣唐留学生阿倍仲麻呂、井真成、吉備真備、弘法大使空海などのゆかり地も現在の西安に遺されています。

西安 唐墓壁画

[ 鳴沙山と月牙泉 ]   シルクロードで最も美しい砂丘が連なる鳴沙山は、敦煌市西南5kmの所にあり、東西の長さ約40km、南北の幅約20km、最高峰は海抜1,715mで、五色の細かい砂粒の集まりで出来ている。  月牙泉は鳴沙山の北麓にあり、周囲を砂丘に囲まれたオアシスで、湖面が三日月の形をしていることからこの名が付いたものである。  砂丘の真ん中にありながら1,000年以上も枯れたことのない神秘のオアシスの湖内には、鉄背魚や七星草が生息しており、これを食べると長生き出来るという言い伝えから、月牙泉は別名「薬泉」とも言われている。
[玉門関] 異民族が対峙した西域攻防の最前線   陽関と並び西域・天山南路へ通ずる重要な関門であった玉門関は、古来より異民族との攻防の地として漢詩にもよく詠まれており、唐代の詩人・李白がこの地を詠った「漢は下る白登の道。胡は伺う青海の海。由来征戦の地。見ず人の還るあるを・・・」も有名である。シルクと玉石が交換された玉門関は今も城壁が残り、玉門関を守る屯田兵たちの食物倉庫だった河倉故城や漢代長城遺跡と共に、古代シルクロードの盛衰が偲ばれる。  

[ 陽 関] 漢詩で有名な漢代の要衝関   唐代の詩人・王維が友人との別れを惜しんで詠った「西のかた陽関を出ずれば故人無からん・・・」の漢詩で有名な場所。  古代シルクロードの軍事通商の重要関門で現在は赤褐色の狼煙台が残るのみであるが、前方に広がる茫々たるタクラマカン砂漠を見渡す狼煙台に立つと、そこはかとない詩情が漂う。陽関の周辺には今でも砂嵐の後などに陶片やコインが発見されるため"骨董灘"と呼ばれている。


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