京都市写真集|中京区 麒麟が来るで有名な本能寺と六角堂 |
はじめに
このページでは仕事の関係で京都市内(烏丸三条他)に10年間生活し、気が付けば何の写真も残っていないので、改めて撮り直した。 2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2016年のものです。
■中京区(なかぎょうく)は、中京区は、旧上京区の丸太町通以南と旧下京区の四条通以北(四条通に面する町は下京区。但し、現在は四条大宮より西の壬生と呼ばれる地域は南は五条通・西は西大路通まで、西ノ京は一部が北は市立北野中学校の位置まで・西は木辻通まで中京区である)から分離して成立したものである。 所謂、京都市の中心部。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
本能寺
■現在の本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区寺町通御池通下ル下本能寺前町522(寺町御池)にある、法華宗本門流の大本山。 本能寺の変の舞台として知られる。 現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。 本能寺の変後、豊臣秀吉が現在地に再建。 京都市役所のすぐそばにあります。
本能寺の変の頃、本能寺は現在とは場所が異なり、東は西洞院大路、西は油小路通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、北は六角通に囲まれた4町々(1町)の区画内にあって、東西約120メートル南北約120メートルという敷地に存在した。本能寺は天正8年(1580年)2月に本堂や周辺の改築が施された。堀の幅が約2m〜4メートルで深さが約1メートルの堀、0.8メートルの石垣とその上の土居が周囲にあって、防御面にも配慮された城塞のような城構えを持っていたことが、平成19年(2007年)の本能寺跡(堀川四条の近く)の発掘調査でも確認されている。 昔は、マンションから京都市役所近くぼ仕事場への行き帰りに必ず本能寺の門前を通りました。 懐かしい場所です。
本能寺由緒 |
本能寺の表門 |
本能寺の本堂 |
本能寺の本堂 |
大本山本能寺 |
京都市役所 |
■本能寺の変(ほんのうじのへん)とは天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃した。 これにより織田政権の中心人物が失われ、6月13日の山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が豊臣政権を構築していく契機となった。
信長公御廟所拝殿 |
信長公廟 |
信長公廟 説明 |
登録有形文化財(国登録)は |
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本能寺の本堂 |
徳川家重夫人の供養塔、菅中納言局庸子の石塔、 |
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★五条庸子(ごじょう ようこ、1660年5月27日(万治3年4月19日) - 1683年9月25日(天和3年8月5日)は、江戸時代前期の女官である。霊元天皇の掌侍。正二位権大納言五条為庸の娘。五条家は菅原氏であるため、菅原庸子とも表記される。
★増子女王(ますこじょおう、正徳元年10月19日(1711年11月28日) - 享保18年10月3日(1733年11月9日))は、江戸幕府第9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の御簾中(正室)。伏見宮邦永親王の第四王女。享保16年(1731年)に家重と婚姻し、江戸城西御丸に入って「御簾中様」と呼ばれた。 大奥。
★島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。
■明智 光秀(あけち みつひで)は、清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれる。 光秀は自身の出自に関する証言はほとんど残していない。 光秀を主人公にした『麒麟がくる』は2020年(令和2年)1月19日から放送されているNHK大河ドラマ第59作。
六角堂
■頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区にある天台宗系単立の寺院。山号は紫雲山。 本尊の如意輪観世音菩薩(如意輪観音)は秘仏。西国三十三所第18番札所。 寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には六角堂の通称で知られている。
華道、池坊の発祥の地としても知られている。
創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。 敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。 これが後の頂法寺本尊である。
六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年(昭和49年)から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。 藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。 他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験(しるし)を見する寺」として、清水、石山、長谷などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。
平成31年(2019年3月)、本堂及び拝堂とともに京都市指定有形文化財に指定されました。
注)Wikipediaと本能寺や六角堂のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
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