京都府写真集|山城地域 海住山寺/恭仁京/弥勒磨崖仏/銭司聖天/浄瑠璃寺/燈明寺 |
はじめに 木津川市
このページでは仕事の関係で京都市内(烏丸三条他)に10年間生活し、気が付けば何の写真も残っていないので、改めて撮り直した。 2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2016年以前のものです。
■加茂町(かもちょう)は、京都府相楽郡にあった町である。 2007年3月12日、山城町、木津町と合併し木津川市となった。奈良時代の一時期、都(恭仁京)が置かれたという歴史があり、多数の史跡・文化財を有する。日本最初の流通貨幣「和同開珎」が造られた地でもある。735年(天平7年)
− 聖武天皇の勅願により海住山寺創建。740年(天平12年) − 聖武天皇による恭仁京遷都。
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海住山寺(かいじゅうせんじ)
■海住山寺(かいじゅうせんじ)は、京都南部の南山城の京都府木津川市加茂町にある真言宗智山派の仏教寺院。かつて恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹に位置する。 山号は補陀洛山(ふだらくさん)、本尊は十一面観音。奈良時代の創建を伝え、鎌倉時代、貞慶によって中興された。国宝の五重塔で知られる。 寺伝では天平7年(735年)、聖武天皇の勅願により良弁(奈良東大寺の初代別当)を開山として藤尾山観音寺という寺号で開創したという。 伝承によれば、聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。 本尊十一面観音(重要文化財)
。
★海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味があるとする。また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山(ポータラカ山)にあるとされ、当寺を海に住する山である補陀洛山になぞらえる意味もあるという。
★山の中腹にある境内地は東を正面とする。山門を入り、正面には東面する本堂、その右手前に南面する文殊堂、本堂の左手(南)には五重塔が建つ。 五重塔 - 建保2年(1214年)建立
恭仁京(くにきょう)
■恭仁京(くにきょう、くにのみやこ)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の地。 現在の京都府木津川市加茂地区に位置する。 大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とも。 「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」として、国の史跡に指定された。
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。 相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
恭仁宮跡(山城国分寺跡) |
大極殿(金堂)跡の石碑 |
大極殿(金堂)跡の景色 |
山城国分寺跡の石碑 |
★741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。 条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。 しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。 |
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山城国分寺 |
遷都後、宮城跡地は山城国分寺として再利用されることになった。大極殿は金堂に転用されたという。南北約330m、東西約275mの広大な寺域を有していた。金堂の東側は国分寺の鎮守社である御霊神社の境内地だったとされる。 |
恭仁宮跡(山城国分寺跡 |
山城国分寺 |
一方では恭仁京を造りながら、同時にもう一つの離宮・紫香楽宮の建設を進めたものですから、国家財政はたまりません。 |
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★七重塔 経典(金光明最勝王経)を納めた塔(国分寺以外の場合は釈迦の遺骨(舎利)を納めた)。金堂の東南東約120メートルに位置し、金堂とは異なり国分寺施入後の新造になる。
基壇は17メートル(57尺)四方で、化粧は瓦積基壇とし、基壇裾には石敷の犬走り(雨落)が巡らされるほか、周囲には30メートル(100尺)四方の掘立柱塀が巡らされて塔院を形成する。
基壇上建物は七重塔とされ、初層は3間四方で、9.8メートル(32尺)四方を測る。 礎石は花崗岩製で柱座・地覆座を造出し、現在は17個のうち15個が原位置を保った状態で遺存する。
当尾の石仏 弥勒磨崖仏
■当尾磨崖仏文化財環境保全地区は、浄瑠璃寺と岩船寺を結ぶ山道1.5キロメートルを中心として広範囲に平安時代から室町時代の石仏や石塔が点在する地区で、当地の石仏群は一般に当尾の石仏と呼ばれる。
■みろくの辻 弥勒磨崖仏(京都府指定文化財、 |
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★像の左右に各一行の刻銘があり、法華経化城喩品の偈(げ)と「文永十一年(1274)甲戊二月五日 為慈父上生 永清造之 大工末行」の銘を刻む。
笠置寺の本尊「弥勒磨崖仏」を写しとったものといわれている線刻の磨崖仏で、刻まれた銘により作者は伊派石大工 伊末行(いのすえゆき)。
銭司聖天(ぜずしょうてん)
■京都府木津川市加茂町にある銭司聖天(ぜずしょうてん)では、お金に縁のあるお寺として金運向上の御利益で有名です。「夢をかなえるゾウ」で知られるガネーシャ(歓喜天、聖天様)が祀られている。 聖天様は七代の財を一代に集める程、特に金運向上に対して御利益がるという。
その昔、銭司は「和同開珎」を製造していた「鋳銭司」でした。 大根は聖天信仰の象徴。
京都府木津川市加茂町銭司美ノ畑26
銭司聖天 本堂 |
銭司の歴史 |
祈願成就のための大根 |
閻魔(えんま)社 |
稲荷社(左)と大きな和同開珎 |
銭司聖天のいわれ |
聖天堂 |
本尊の大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三尊 本堂 |
■わび・さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。 |
★和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)は、708年8月29日(和銅元年8月10日)に、日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目にあたる。 和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られている。1999年1月19日には、奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。
わらべ観音 |
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六地蔵 |
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伽藍配置図 |
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浄瑠璃寺
■浄瑠璃寺(じょうるりじ、)は、京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土『東方浄瑠璃世界』に由来する。永承二年(1047)に開基。重要文化財の厨子入木造吉祥天立像(附:吉祥天摺仏59枚(像内納入品)、革製厨子金具形残欠8片) は本堂内に安置。像高90.0cm。檜材割矧ぎ造。彩色・截金。平安朝風の優美な作風の像であるが、『浄瑠璃寺流記事』によれば実際の制作は鎌倉時代の建暦2年(1212年)である。仏教尊像としての威厳と、現実の女性を思わせる官能美が見事に調和した作品である。 本堂(阿弥陀堂)は国宝です。
浄瑠璃寺・国宝・本堂(阿弥陀堂、木津)と宝池 |
浄瑠璃寺 7重塔 |
吉祥天像(京都・浄瑠璃寺) |
■吉祥天は仏教の福徳の女神で別名「功徳天」サンスクリット語では「シェリーマハーデービー」と呼ばれています。ヒンズー教ではラクシュが仏教に取り入れられたもので、ヒンズー教ではビシュヌ神の妃。吉祥天の像で有名な所は、奈良の薬師寺と木津にある浄瑠璃寺です。
燈明寺 跡(木津川市)
■燈明寺(とうみょうじ)は、現在の京都府木津川市兎並(うなみ)(旧相楽郡加茂町)にあった日蓮宗の寺院。 現在は廃寺同様であるが、宗教法人は存続している。 建物の一部は、横浜市の三渓園に移築され現存する。 旧本山は、横浜川合寺。 『燈明寺縁起』(元禄9年・1696年成立)に伝える寺伝によると奈良時代、聖武天皇の勅願により行基が開創したとされ、貞観5年(873年)清和天皇の勅願で空海(弘法大師)の弟子真暁が再興したという。 寺号は「東明寺」とも表記する。
御霊神社本殿(燈明寺鎮守、重要文化財) |
本殿 拡大 |
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脇障子舞楽図 右脇障子は「蘭陵王の舞」という、 |
燈明寺 跡の碑 |
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■木津川市兎並に寺跡が残る。同地には燈明寺の鎮守であった御霊神社があり(本殿は本殿は三間社流造で、南北時代の建立と考えられ、重要文化財)、神社の左手前に燈明寺本堂、神社の右手奥まったところに燈明寺三重塔があった。燈明寺の旧仏は現地の収蔵庫に保管されている。
天ヶ瀬ダム(あまがせダム)
■天ヶ瀬ダム(あまがせダム)は京都府宇治市、一級河川・淀川本川中流部、通称宇治川と呼ばれる流域に建設されたダム。形成された人造湖は鳳凰湖(ほうおうこ)と命名され、平等院鳳凰堂などと共に宇治地域の主要な観光地となっている。
天ヶ瀬ダムと鳳凰湖 |
木津川 相楽郡笠置 |
木津川 城陽市 |
■笠置町(かさぎちょう)は、京都府の南部に位置し、相楽郡に属する町。笠置町(かさぎちょう)は、京都府の南部に位置し、相楽郡に属する町。笠置町一帯は奈良の東大寺の造営に際し、木材を切り出して木津川の水運を使って運んだ事など古くから水運の要衝として発達していた。笠置寺は東大寺の造営に当たった良弁とその弟子実忠が来山したと伝えられる古刹で、南北朝の動乱時の元弘の乱(1331年)には後醍醐天皇の行在所となり、兵火にあって大半の建物が焼失した。
■城陽市(じょうようし)は、京都府の南部に位置する市。京都市と奈良市のほぼ中間に位置する。正道官衙遺跡(国の史跡)や久世神社、水度神社(いずれも本殿は国の重要文化財)などの歴史的建築物を擁する都市である。
注)Wikipediaと海住山寺や銭司聖天のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
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