京都市写真集| 右京区太秦にある広隆寺と東映映画村 想い出写真
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はじめに
このページでは仕事の関係で京都市内(烏丸三条他)に10年間生活し、気が付けば何の写真も残っていないので、改めて撮り直した。 2020年8月現在、今は新型コロナウイルス感染症(
COVID-19(coronavirus disease 2019))が蔓延している状況で、写真や情報は2015年12月段階のものです。
第3弾は右京区太秦にある広隆寺と東映映画村をご紹介。
右京区というと京都では非常にマイナーな山ばかりのイメージが強いが、現在の右京区がある地域の歴史は古く、かつてこの地には山背(山城)国府が置かれていたともいわれる。渡来人の秦氏もこの地方を拠点として活躍したと思われ、氏寺として広隆寺を建立した。秦氏と関係の深い桓武天皇が平安京を定めると、京中に寺の建立が禁止されていたために、現在の右京区域にも多くの寺社が立ち並んだ。嵯峨天皇が嵯峨離宮(後の大覚寺)を建てたりするなど多くの貴族はこの地に馴染み、また嵐山に遊んだ。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページの索引 [広隆寺|東映映画村]
広隆寺
■広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。 山号を蜂岡山と称する。 渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。 毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られる。 広隆寺は、東映太秦映画村で有名な太秦に所在する。
伽藍−楼門を入り、参道を進むと右手に講堂(重要文化財)、左手に薬師堂、能楽堂、地蔵堂(平安時代の地蔵菩薩坐像を安置)などがある。 参道正面には本堂にあたる上宮王院太子殿があり、その手前右手に太秦殿(秦河勝を祀る)、左手(西)には書院、北側には霊宝殿と旧霊宝殿がある。 このほか、書院の西方、奥まったところには桂宮院本堂(国宝)がある。
嵐電から見た楼門
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木造弥勒菩薩半跏像
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講堂(重要文化財)
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★楼門−寺の正門である。元禄15年(1702年)の建立と伝える。楼門を入り、参道を進むと右手に講堂(重要文化財)、左手に薬師堂、能楽堂、地蔵堂(平安時代の地蔵菩薩坐像を安置)などがある。
★広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。
★木造弥勒菩薩半跏像−広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。
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講堂(重要文化財)
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上宮王院太子殿
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広隆寺由緒書き
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上宮王院太子殿
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★講堂(重要文化財)−正面5間、側面4間、寄棟造、本瓦葺き。瓦銘や近世の絵図によれば元は「金堂」と呼ばれていた。
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講堂(重要文化財)
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講堂(重要文化財)
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★上宮王院太子殿 - 広隆寺の本堂に当たる堂。
入母屋造、檜皮葺きの宮殿風建築で、享保15年(1730年)の建立である。
堂内奥の厨子内には本尊として聖徳太子立像を安置する。
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★牛祭は『都名所図会』によれば、毎年9月12日の夜、戊の刻に牛祭の神事があり、広隆寺の僧侶五人が五尊の形を表し、異形の面をかけ、風流の冠を着し、太刀を侃き、一人は幣を掲げて牛に乗り、四人は前後を囲み、従者は松明をふり立て、行列をなして本堂の傍から後ろに巡り、西側から祖師堂の前の檀上に登り祭文を読んだという。
★嵐電:嵐山本線(あらしやまほんせん)は、京都府京都市下京区の四条大宮駅から右京区の嵐山駅までを結ぶ京福電気鉄道の軌道路線である。北野線と併せて嵐山線、通称嵐電(らんでん)と呼ばれる。 嵐山を始めとする洛西エリアの観光地への行楽路線であるとともに、繁華街である四条通へ出るための足ともなっている。 西大路三条駅
- 山ノ内駅間と蚕ノ社駅・太秦広隆寺駅付近が併用軌道のほかは、すべて新設軌道となっている。 京福電気鉄道株式会社は、京都市内で軌道事業(路面電車)とケーブルカー及びロープウェイを運営している会社。
東映映画村
■東映太秦映画村は、京都市右京区太秦東蜂岡町にある映画のテーマパーク。時代劇の殺陣ショーや俳優のトークショー・撮影会・握手会などのほか、スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズなどのキャラクターショー、殺陣講座などの体験企画なども行なわれている。
村の中を歩けば、そこかしこに江戸時代の建物が乱立しています。ふっと気が付くとその時代にタイムスリップした気分になります。
京福電車嵐山線(嵐電)「太秦広隆寺駅」下車徒歩5分京福電車嵐山線(嵐電)「太秦広隆寺駅」下車徒歩5分。
東映太秦映画村入口
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昔懐かしいチンチン電車
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映画村の堀割
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路面電車の別の呼び方としてチンチン電車、路面電車は昔“チンチン”と警笛を鳴らしていた
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幕末期の侍と新選組隊士
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新選組の屯所 長屋門
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★新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都の治安維持、特に尊王攘夷運動の弾圧に活動した浪士隊である。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いに敗北したあと、甲州において新政府軍に敗れて解隊した。幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。
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小間物屋
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中村座
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江戸時代の刀鍛冶
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江戸・吉原の水桶
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江戸・吉原の門
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江戸・吉原の風景
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吉原通り
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江戸時代の表具屋
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江戸・吉原の花魁
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吉原遊廓とは、江戸幕府によって公認された遊廓である。遊女、芸妓における太夫の称号は江戸時代初期に誕生し、当時は女歌舞伎が盛んで芸達者の役者が「太夫」と呼ばれたのが始まりだといわれる。花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。
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銭形平次のセット 神田明神下に住む岡っ引の平次(通称 銭形平次)の家
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★大川橋蔵主演の『銭形平次』−大川橋蔵・主演『銭形平次』(ぜにがたへいじ)は、1966年5月4日-1984年4月4日まで、フジテレビ系列で毎週水曜20時から放映された連続テレビ時代劇。映画スターだった大川橋蔵が、18年にわたって主役を演じ、ギネスブックで「テレビの1時間番組世界最長出演」と認められた。 『銭形平次捕物控』(ぜにがたへいじ
とりものひかえ)は、野村胡堂による小説。神田明神下に住む岡っ引の平次(通称 銭形平次)が、子分の八五郎(通称:ガラッ八−ガラッパチ)と共に卓越した推理力と寛永通宝による「投げ銭」(重さ3.5グラムで、小石を投げつけるのと同じ)を駆使し、事件を鮮やかに解決していく。
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銭形平次のセット
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二丁目小路
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町家の井戸
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寺子屋
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日本橋 江戸屋
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寺子屋とは、江戸時代の上方において、寺院で手習師匠が町人の子弟に読み書き・計算等を教えた学問施設である。江戸における町人の子弟の学問施設は「筆学所」「幼童筆学所」。
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日本橋の案内
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宿場町
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江戸時代の日本橋
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★江戸幕府の開府に伴い、慶長8年(1603年)に建造された日本橋は、江戸時代においては木造の太鼓橋でした。 架橋の翌年の慶長9年(1604年)には五街道の起点に定められた。
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(続く) 元和4年(1618年)に最初の大改架。『慶長見聞集』に長さ三十七間四尺五寸(約68m)、幅四間二尺五寸(約8m)との記述があり、後年の日本橋より長かった。 宝暦7年(1757年)の『萬句合(まんくあわせ)』には「ふる雪の白きをみせぬ日本橋」という古川柳があるように、日本橋は雪の積もる間もないほど人の往来が激しい、まさに江戸の中心地となります。
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鍛冶屋
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旅籠のかまど
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中村座
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きせる屋
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村の橋
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地蔵尊
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宿場町
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東映城大手門
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黄門しだれ
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★煙管(きせる)とは、日本の喫煙具の一種で、パイプに類似する。多くの時代劇等で煙管は重要な小道具として登場するが、16世紀以前には伝来していない。江戸時代においては、多くの場合に大店の主人や番頭等が自分にあった道具を誂えたりと、嗜好の世界というより一種のファッションやステータスシンボルであった。
★黄門しだれは、TBS系列で放映されていた「水戸黄門」の300回を記念して水戸市長から寄贈されたもの。
★村内に再現された江戸の町などでは、実際のテレビや映画の撮影が行われ、ナマの撮影を見学することができる。
★京都太秦美空ひばり座 歌、映画、舞台・・・あらゆるジャンルにわたって日本人を魅了した永遠のスター、美空ひばり。映画ポスターや貴重な衣装、小道具を展示してます。
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京都太秦美空ひばり座
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美空ひばり 衣装
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京都太秦美空ひばり座
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書画屋
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めしや
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薬問屋
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中村座 入口正面
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中村座 舞台
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中村座 内部
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ガマの油売り 実演ショー
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ガマの油売り 中村座(イベント施設) 大道芸ショー
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★中村座は、江戸にあった歌舞伎劇場で江戸三座のひとつ。1624年(寛永元年)、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸の中橋南地(現在の京橋の辺り)に創設したもので、これが江戸歌舞伎の始まりである。
★ガマの油とは、もともとは江戸時代に傷薬として用いられていた軟膏で、のちに、筑波山名物として土産物として販売されるようになったワセリンなどを成分とする商品。ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというもの。江戸時代にガマの油の露天販売を行っていた香具師は客寄せのために大道芸を披露していた。
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三丁目通り 撮影の帰り
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風呂屋
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三丁目通り
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★江戸時代は、お家にお風呂がなかった。武士だろうが大商店の主人だろうが貧乏長屋の家族だろうが、みんな公衆浴場=銭湯に通いました。 銭湯は、江戸では「湯屋」と呼ばれていて「ゆや」「ゆうや」と読みます。
ちなみに京や大坂など上方では「風呂屋」と呼ばれていました。
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大店街大店街
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港町 セット
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江戸時代 港町
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からくり忍者屋敷
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特撮プール
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港町
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江戸時代のソバ屋
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文明開化時代の自動車
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モデルは女優さん
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番所(ばんしょ)
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番所(ばんしょ)内部 さすまたなどの武器などが
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★番所(ばんしょ)とは、警備や見張りのために設置された番人が詰めるために設けられた施設。江戸時代の日本では重要な地点に番所が置かれていた。交通の要所に番所が設置され、通行人や荷物、船舶などの検査や徴税を行った。江戸において「(御)番所」は町奉行所を指していたが、この他にも江戸城の城門に設置された御門番所、武家地の警備のために辻などに置いた辻番所、両国橋などの主要な橋のたもとに置かれた橋番所、町人地の木戸に設けられた木戸番屋、その他町内に配された自身番屋などがあった。 今でいう警察と税務署の様な役割があった。
注)Wikipediaと広隆寺や東映映画村のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
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京都市写真集|右京区太秦にある広隆寺と東映映画村
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