Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

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アメリカ合衆国の独立戦争(American War of Independence)と南北戦争(American Civil War)に関する切手

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アメリカ合衆国の独立戦争と南北戦争に関する切手

 アメリカ合衆国の独立戦争と南北戦争に関する切手。 アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう, 英: American War of Independence)は、 1775年4月19日から1783年9月3日までのイギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争です。 独立戦争が終結すると、凡そ100年後には南北のアメリカを左右する内戦が始まった。 南北戦争(なんぼくせんそう、American Civil War, 1861年 - 1865年)は、アメリカ合衆国に起こった内戦である。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。 世界の核廃絶や戦争、武器や兵器・兵士・軍隊の切手はこちら。 世界の平和を祈念しています。

 

アメリカ合衆国の独立戦争に関する切手  1775年 − 1783年

■背景と経緯:イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国の「発見」を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は、東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名。その名が定着していった。 これをきっかけに、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植が始まった。
■アメリカ独立戦争によって、植民地の者達がイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、政治と立法を主に担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家の形を取った。戦争の全期間を通して、イギリスはその海軍の優越性によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵力が数において比較的少なかったために支配地域は限られたものになった。
アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年、フランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことが引き金になり、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終わった。1783年のパリ条約で戦争が終結となり、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。

ボストン茶会事件(Boston Tea Party)

バンカー・ヒル戦

左の切手はアメリカで発行されたボストン茶会事件の模様を表した切手です。

■ボストン茶会事件(Boston Tea Party)は、1773年12月16日に、アメリカ・マサチューセッツ州ボストンで、イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の組織が、アメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に侵入、イギリス東インド会社の船荷の紅茶箱をボストン湾に投棄した事件。アメリカ独立革命の象徴的事件である。

S.ルディントン

S.プーア

H.サロモン

P.フランシスコ

独立戦争当時の軍服(USA,1975年)

レキシントン・コンコード戦

独立戦争当時の軍服(USA,1975年) 独立戦争当時の軍服(USA,1975年)

独立戦争200年・1776年の精神(USA、1976年)ワシントン

独立戦争200年・1776年の独立宣言(USA、1976年)

独立戦争200年・1776年の精神(USA、1976年)ワシントン

■アメリカ合衆国は、イギリスの北米植民地が1776年7月4日に独立を宣言して成立した国家で、独立宣言において全ての人民の権利と平等をうたい政府をその保障手段と明確に位置づけ、かつては奴隷制のような矛盾を抱えつつも、ロックらの人権思想を理念的基盤として歩んできた歴史を有する。少数のネイティブ・アメリカンと呼ばれる先住民以外の国民は、主にユーラシア大陸からの移民もしくはアフリカ大陸から奴隷貿易によって強制連行された者の子孫である。そのため、その母体になった国々や、その他多くの国家の特徴を経済的、政治的、軍事的、そして文化的にも合わせ持っている。資本主義、自由主義、民主主義、共和制、大統領制、二院制を採用している連邦国家の1つである。

独立宣言 1776年(USA,1976年)

コーンウォリスの降伏 1781年

独立宣言(USA,1976年) コーンウォリスの降伏

■コーンウォリスの降伏:ヨークタウンの戦い(Battle of Yorktown)は、1781年に起こったアメリカ独立戦争を事実上終結させた決定的な戦闘。バージニア植民地東岸のイギリス軍最終拠点であったヨークタウンにて、米仏連合軍がチャールズ・コーンウォリス率いるイギリス軍約7,000を包囲、降伏させた。この戦いによって、アメリカ独立戦争における植民地軍の勝利は確定し、独立戦争は事実上の終結を見た。
1781年7月19日、ニューヨークのドブスフェリーに野営していたワシントンはコーンウォリスの状況を聞いて次のように記録している。「私の意見では、この状況下では2つのポイントに十分な戦力をつぎ込むべきだろう。1つはニューヨークに隣接する地域に大陸軍と民兵を、残りの大陸軍とフランス軍はバージニアへ」。連合軍が包囲の輪を狭めてくる一方で、コーンウォリスはニューヨークからの救援隊の到着が遅れていることがわかった。10月16日、イギリス軍はフランス軍の砲兵隊に攻撃を挑んだが失敗した。前線が近づいた以上、連合軍の砲火はイギリス軍の陣地の中にも直接降り注いでいた。その夜、ヨーク川を渡ってグロウスターに脱走が試みられたが、ひどい嵐のために失敗した。コーンウォリスの軍は食料も弾薬も底を突きかけており、10月17日、遂に降伏を申し出た。10月19日、調印が行われ、正式に降伏した。約7,000名のイギリス軍が捕虜となった。

『デラウェア川を渡るワシントン』( Washington Crossing the Delaware)

『デラウェア川を渡るワシントン』(Washington Crossing the Delaware)

ワシントンの後ろに立って旗を持っているのが、ジェームズ・モンロー中尉であり、後の大統領である。 モンロー主義で有名。
2004年時点で、メトロポリタン美術館の永久収蔵品となっている。

■『デラウェア川を渡るワシントン』(英: Washington Crossing the Delaware)は、1851年にドイツ系アメリカ人画家エマヌエル・ロイツェが描いた油彩画ある。題材はアメリカ独立戦争中の1776年12月25日にジョージ・ワシントンが大陸軍を率いてデラウェア川を渡ったことを記念するものである。この渡河によって大陸軍はニュージャージーのトレントンにおけるトレントンの戦いでドイツ人傭兵隊を急襲した。この絵はその美術的構成によって著名である。ジョージ・ワシントン将軍が不自然なくらい明るい空の色で強調されており、その顔はやがて昇ってくる太陽を捉えている。全体の色調は暗く夜明けを暗示させるものだが、絵全体に赤が繰り返し使われて浮かび上がっている。短縮遠近法で描かれており、遠くの船が絵に奥行きを与えて、ワシントンの乗る船が強調されている。 船に乗る人々はアメリカ植民地の断面を現しており、スコットランド風帽子を被った男、前面に座って隣同士に後方を向いたアフリカ人の子孫、舳先と船尾にいる西部のライフル銃射手、後方に近く広縁の帽子を被る2人の農夫(1人は頭に包帯を巻いている)、そして恐らくは男の服を着た女性であることを意味している赤いシャツを着た中性的な漕ぎ手などが描かれており、船の後方にはインディアンらしき者もいる。

バレー・フォージ 閲兵するワシントン

バレー・フォージ 閲兵するワシントン

■バレーフォージ(Valley Forge)は、アメリカ独立戦争中の1777年から1778年にかけての冬、大陸軍が宿営地としたペンシルベニア州にある場所。それまで大陸会議の開催場所、首都であったフィラデルフィアをイギリス軍に占領され、この冬ジョージ・ワシントン将軍は最も困難な状況に置かれていたが、軍隊を再訓練し活性化させる期間でもあった。1778年はフランスがアメリカと同盟し参戦した年ではあるが、その後の数年間アメリカ独立戦争は持久戦の様相を呈した。12月19日、ワシントンの12,000名の軍隊は食料に乏しく、装備も満足になく、長い行軍で疲れ切ってバレーフォージに辿り着いた。宿営の場所を選び、防御線が計画され配置についた。数日後にはスカイルキル川に氷が張った。積雪量は6インチ (15 cm) であった。1,000戸以上の小屋が建設されたが、絶対数が不足しており絶えず悩みの種であった。栄養不足で着るものはぼろぼろ、宿舎は混み合い、湿気が多かったために、兵士は病気や疫病に襲われた。

アメリカ合衆国の南北戦争に関する切手   1861年 - 1865年

■南北戦争(なんぼくせんそう、American Civil War, 1861年 - 1865年)は、アメリカ合衆国に起こった内戦である。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。英語の civil war は「内戦」を意味する語だが、アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので(ユタ戦争など、内乱と呼ぶべき物はいくつかある)、通常はこれに定冠詞をつけ大文字にして The Civil War と表記する。
■当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人労働奴隷により支えられていた。そして、農園所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益だったため、南部は自由貿易を望んでいた。
それに比べ、北部では米英戦争(1812年 - 1814年)による英国工業製品の途絶でかえって急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制とは相容れなかった。また、欧州製の工業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められていた。その結果、奴隷制に対する態度と貿易に対する態度の両方で意見を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという「自由」、奴隷州に対する概念的呼び方)と南部の奴隷州の対立が一層激化した。

サムターの海岸砲

シャイローの狙撃兵

ウィルダネスの砲撃

ゲティスバーグの白兵戦

アメリカ・南北戦争 サムターの海岸砲 大砲 アメリカ・南北戦争 シャイローの狙撃兵 アメリカ・南北戦争 ウィルダネスの砲撃 アメリカ・南北戦争 ゲティスバーグの白兵戦

■英語の civil war は「内戦」を意味する語。
 

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