Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 有名人の切手|日本の戦国時代の殿様やお妃・奥方様やお姫様達の切手と関連の写真 / 長篠の戦いや小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、戦国時代の末期として戦国時代に含めています。 特にこの時代で有名な人物は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、毛利元就、武田信玄、北条早雲、上杉謙信、斉藤道三、今川義元、明智光秀、足利将軍家、一乗谷・朝倉氏・・

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日本の戦国時代の殿様やお妃・お姫様達の切手と関連の写真

 日本の戦国時代の殿様やお妃・奥方様やお姫様達の切手と関連の写真を掲載。日本におけるの戦国時代は、日本の歴史において、戦国大名が乱立した時代。 1493年の明応の政変あるいは1467年の応仁の乱に始まり、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放されて室町幕府が倒されるまでの時代を指します。 ここでは、長篠の戦いや小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、戦国時代の末期として戦国時代に含めています。 特にこの時代で有名な人物は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、毛利元就、武田信玄、北条早雲、上杉謙信、斉藤道三、今川義元、明智光秀、足利将軍家、一乗谷・朝倉氏・・。
   

 
 

日本の戦国時代の殿様やお妃・お姫様達の切手

ページ内の索引 [ 殿様・武将お妃・奥方様・お姫様関連写真 ]

 殿様・武将

桶狭間の戦い450年 織田信長と今川義元、おけはざま山(昭和初期)、釜ケ谷(昭和初期)、古戦場公園、長福寺、万灯会、桶狭間神明社、今川義元の墓、田楽坪(昭和初期)、戦評の松(3代目と初代) 

豊臣秀吉(レソト)

桶狭間の戦い450年 織田信長と今川義元、おけはざま山(昭和初期)、釜ケ谷(昭和初期) 豊臣秀吉(レソト)

"Toyotomi Hideyoshi(豊臣秀吉)", and "Marshall Takamori"
月岡 芳年 画
 

■桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を潰走させた、日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。東海道に君臨した今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内の制圧に向かって急成長していったことで戦国時代の重要な転機となった。

毛利 良勝は、出自については不明だが、織田信長に仕え、永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは負傷した服部一忠を助け、今川義元の首を取り名を上げた(この際指を噛み千切られたとも言われる)。その功により、のちに黒母衣衆のひとりとなった。

甲斐の国   風林火山  
武田信玄、上杉謙信、山本勘助、武田信繁、武田勝頼、原大隅守

〜風林火山と武田氏〜  板垣駿河守信方、武田勝頼公、武田信玄公、・内藤修理亮昌豊、高坂弾正忠昌信、山県三郎兵衛尉昌景、穴山玄蕃頭信君、山本勘介晴幸、原美濃守虎胤、真田安房守昌幸 

<p>風林火山 武田信玄、上杉謙信、山本勘助、武田信繁、武田勝頼、原大隅守 </p> 甲斐の国〜風林火山と武田氏〜板垣駿河守信方、武田勝頼公、武田信玄公、・内藤修理亮昌豊、高坂弾正忠昌信、山県三郎兵衛尉昌景、穴山玄蕃頭信君、山本勘介晴幸、原美濃守虎胤、真田安房守昌幸

■風林火山(ふうりんかざん)は、南北朝時代の南朝方の鎮守大将軍・北畠顕家や、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し)の通称。「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句は『孫子』・軍争篇で軍隊の進退について書いた部分にある「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。/其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」からの引用。 これは「移動するときは風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように。隠れるには陰のように、防御は山のように、出現は雷のように突然に」と言う意味である。信玄は信仰する諏訪明神の加護を信じて「南無諏方南宮法性上下大明神」を本陣旗としている。

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 殿様・武将も関連ある地域や道具等の歴史的な情報

戦国時代の兵どもが夢の跡

一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市にある戦国時代の遺跡である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。

鞆の浦(とものうら、1939年)

■鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆町の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域。戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど備後国の拠点のひとつとなっていた。室町幕府15代将軍足利義昭は織田信長により京を追放された後、毛利氏などの支援のもと鞆に拠点を移し信長打倒の機会を窺った。

天正遣欧少年使節400年
(1982年)南蛮船と古地図

鞆の浦(とものうら1939年)、瀬戸内海国立公園

愛知 名古屋まつりと三人の武将 (戦国時代の武将、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に扮した三 人)

名古屋城と金の鯱(シャチホコ)

ユリと名古屋城(愛知県)

愛知 名古屋まつり 名古屋城と金の鯱(シャチホコ) 愛知 ユリと名古屋城(愛知県)

世界遺産・延暦寺・根本中堂

世界遺産・延暦寺・根本中堂

□比叡山延暦寺は、延暦7年(788)、最澄(伝教大師)が平安京の鬼門鎮護のために一乗止観院を建て比叡山寺と称したのが 始まりとされます。延暦25年、桓武天皇から天台法華円宗を公許され、天台円教・密教・禅法・戒律の四宗兼学道場となりました。  弘仁13年(822)には 嵯峨天皇から戒壇の設置を許され、翌年には延暦寺の寺号を与えられました。  平安時代末期には、3塔・16谷・3000坊を数え日本仏教の母山として確固たる地位を築いていました。比叡山で修行した僧の中から  円仁,円珍や後の 鎌倉仏教の祖師となる法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍 など多くの名僧を 輩出しています。元亀2年(1571)、織田信長により全山焼き討ちに遭うが、豊臣秀吉から徳川家光の時代にかけて復興がなされた。

延暦寺・根本中堂 根本中堂 比叡山

日光・東照宮・陽明門 

日光東照宮・陽明門

日光東照宮・五重塔

日光東照宮・陽明門

日光東照宮・陽明門 国宝 日光東照宮・五重塔 タイ 2007年

■栃木県日光市の東照宮:徳川家康の霊廟として1617年に創建され、現在の主要な社殿は、1636年に造営されました。東照宮の建築により「権現造」様式や彫刻、彩色等の建築装飾の技法が完成されました。世界遺産。

萩開府400年=「毛利敬親大名行列錦絵」』2種連刷

萩開府400年=「毛利敬親大名行列錦絵』2種連刷
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■戦国時代初期の文化は、
北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。しかし、下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。 特に、千利休による茶の湯の大成は、禅の思想に基づく“わび・さび”の考え方と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について大きく意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。 戦国時代に活動した画家には雪舟等楊、雪村周継、土佐派の土佐光信、狩野派の狩野元信、長谷川等伯らがいる。

 お妃・奥方様・お姫様

雪の中の子供をつれた常盤御前』春好斎 北洲(hokumei shunyokusai)

■常盤御前は、平安時代末期の女性で、源義朝の愛妾。阿野全成、義円、源義経(今若、乙若、牛若)の母。字は常葉とも言います。
 『平治物語』等の軍記物や、『尊卑分脈』によれば近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされている。 源義朝の妾(側室)となり、今若、乙若、そして牛若(後の源義経)を産む。 平治元年(1159年)平治の乱が勃発し、義朝は謀反人となる。 その後平治の乱の鎮定功労者の一人の平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされる。
 平治の乱で義朝が謀反人となってその逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後子供たちをつれて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前におもむいてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいを懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。
 その逃亡の時の親子を描いたものですね。

雪の中の子供をつれた常盤御前(hokumei shunyokusai)
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■NHK大河ドラマ 「江〜姫たちの戦国〜」は戦国時代の武将・浅井長政の娘である茶々、初、江(浅井三姉妹)のうち江姫を主役とした物語。
浅井長政は織田信長の妹・市を娶った武将で、越前の朝倉氏とも同盟していました。しかし、信長が朝倉攻めを行ったことから、朝倉との同盟を選んで信長の敵となり、江の生後間もないうちに滅ぼされてしまいます。市はその後、信長の家臣であった柴田勝家に嫁ぎますが、信長の死後に勝家は羽柴秀吉と対立して敗れてしまい、市も自刃することに。両親を失った江は茶々、初とともに秀吉と引き取られ、佐治一成と結婚するものの、一成が秀吉と敵対したため強制的に離縁。次に秀吉の甥・秀勝と結婚しますが、こちらは文禄の役で朝鮮に出兵し病没してしまいます。最後に結婚したのが、秀吉のライバルであった徳川家康の子、秀忠でした。やがて徳川家は豊臣家と対立していくことになり、秀吉の側室となり秀頼を生んだ茶々(淀殿)と江も否応なく対立することに……というのが当時の流れ。
原作・脚本は2008年の大河ドラマ「篤姫」でも原作を務めた田渕久美子。「大奥の始まりに至る道のりを、鮮やかに華やかにオリジナルでドラマに仕上げます」だそうです。この主役である江を演じるのが、ドラマ「のだめカンタービレ」ののだめ役や映画「スウィングガールズ」鈴木友子役(主役)の上野樹里さん。

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